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何時に無い緊張感が張り詰める中、やっとのことで正装に着替えると、何時にも増しての重い工房の扉を広げた。
心のどこかでは判り切っていたはずの、僕の思いつく限り最悪の予想は的中した。
工房の中央で項垂れていたのは他の何物でも無い、あの日の面影を残した兄の姿であった。
僕を一瞥すると譫言の様に兄は言葉を発した。
「俺は唯、狂ったこの世界を変えたかった。」
この世界は狂っている。だがそれを受け入れ居られなかった、浅はかなる兄。
彼はチェと呼ぶ事にした。
いや、既にそう決めていた。
「チェ、残念だが世界はそう簡単には変えることはできない。」
僕の声を聴いたチェは目を見開くと、先ほどの威厳ある口調とは一変した、今にも泣き出しそうな震える声を上げた。
「なあ、良樹。」
僕はアトリエ内で初めて動揺した。
兄は、僕を、僕の末路を知ってここに連れてこられた。
大いなる津波のように押し寄せては返す激情に溺れそうなる。
だが、つまらない私情で天職を手放すわけにはならない。
この一世一代の仕事を避ける事は絶対に叶わない。
ここで逡巡して妙な気を起こせば次の作品は僕自身になるだろう。
これは僕への人生が掛かった芸術家としての最大の挑戦と捉えた。
僕は黒い密室でのみ輝く陰の処刑人なのだから。
一呼吸終えた僕は平静を装い、冷酷に答えてみせた。
「何を言っているか私には理解できかねる。私は名もない一芸術家だ。」
だが、その中でたった一つだけ気掛かりであった最初で最後の疑問を投げかけた。
どうしても気になっていた事。
「聞かせてくれ。お前にとっていったいそいつは何者なんだ?」
それを聞いた兄は哀愁を含んだ笑みを零すと、真っ黒な天井を仰ぎながら消えそうな声色でぼそりと呟いた。
「俺が変えたかった、この世界最大の犠牲者の一人だ。」
兄は再び笑みをこぼすと目を閉じて、固く口を噤んだ。
それを聞いた僕は初めて、着手後にテーマの変更を余儀なくせざるを得ない、哀しみと悦びが鬩ぎ合う激的な情緒に打ち震えた。
「残念だがそれはお前の妄想的主観に過ぎない。
きっとお前の言う男はこの世界に何かしらの悦びを見出しているはずだ。」
兄は力無く口を緩めるた。
「そうか……ただ、虚しいな。」
さようなら。兄よ。
僕の芸術家人生に名を刻む最高傑作にしてみせる。
必ず。
横目で史上最高の土台を一瞥すると一刻前のまでの震えが嘘であったかの様に収まり、確かに触覚を取り戻した手先で、器械台から麻紐を取り上げた。
「それでは始めよう。君が最後まで君であった事実をハッキリと意識してほしい。
それだけが、
唯それだけが私の願いだ。」
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