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空を切った手
それは、雨上がりのことだった。
場所は、駅前だ。
駅から出てきながら傘を差そうとしたその女性は、あら?という顔をして、空を見上げた。
顎のラインがすこぶる美しかった。
今まで見てきた、シャンパングラスを持った女たちの誰よりも綺麗だった。
雨上がりの街のキラキラも、相乗効果をもたらしていたかも知れない。とにかく、仕事あがりの僕は心洗われた思いがした。
女性はスーツ姿だった。白いブラウスに青みを帯びたピンクのタイトスカート、小脇に明るいブラウンのバッグを抱えていた。昼の職業に就いている人だろう。そう思えば一層美しく見えた。
僕は酒臭さがなるべくバレないように、彼女の風下、少し離れた位置から声を掛けた。
「おはようございます。雨、上がりましたね。」
彼女はふり向いて、僕を見て不思議そうな顔をした。無理もない。初対面だ。
僕は言葉を続けた。
「こんな言葉知ってますか?
『雨上がりに出会った人とは、きっと結ばれる』」
にこやかな僕に、彼女はまんざらでもなさそうな顔で小首を傾げた。
「いいえ、知りません。有名なセリフですか?」
「さあ? 頭に浮かんだだけです。何かで読んだのかな。」
僕はとぼけて顔を反らした。
視界の中で彼女が僕を見ている。
僕は彼女に向き直って言った。
「なんにしろ、あなたを見て思い浮かんだんです。
……一目惚れかな。」
さいわい、今日はスーツを汚されていない。
僕は僕の客全員に禁煙を勧めているから、煙草臭くもないはずだ。
(一目惚れ、か。)
僕は内心苦笑いした。女って、この言葉大好きだよな。あきれるほどに。
黙って微笑んでいる僕に、彼女は言った。
「一目惚れ……ですか。それって、」
言いながら傘をたたみ直し、彼女はセミロングの髪を払った。
「ただの第一印象ですよね?」
クスっとして、軽く握った手で口元を隠した後、彼女は顔を上げて颯爽と去っていった。
「ただの第一印象……」
見送るしかなかった。
僕の仕事はそれが99パーセントといっても過言ではないのに。少なくとも指名はそこから始まる。始まればなんとかできた。……店に来る客ならば、だ。
「世界が違うな。」
にしても、鼻で笑われてしまうとはな。
「先輩! 車のキー見つかりました!」
彼女が去ったのとは反対側から、後輩が走ってきた。
「おう、サンキュ。」
僕は何事もなかったように後輩と合流して、家に帰ることにした。
家に帰れば、可愛いマトリョーシカが待っている。昔の常連客にもらった品だ。二人の仲はめくってもめくっても変わらないーーそんな意味合いの走り書き付きだ。語学の堪能な客だった。
車に乗り込むと、スモーキーガラスが雨上がりのキラキラを消した。後輩に運転を任せて、僕は目を閉じた。
ふと、以前勤めていた会社のロビーが脳裏に浮かんだ。昼間の明るいロビーの間抜けだったこと。
「星は夜輝くんだよ……か。」
「なんすか? それ。」
「アルバイトだった頃、先輩に言われた言葉。」
僕はそれだけ言った。まだ尖りたい盛りだったあの頃は、気づいていなかった。昼間にも煌めきはあるってこと……。
久しぶりに気づき直して、口元が笑んだ。
世界が違っても、先ほどの女性は幻ではない。
明るい世界は、いつもどこかにはある。
それでいい。
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