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【プロローグ】
暗がりの中で、多くの書物が差し込まれた書架は、仄かにいくつも浮かび上がった。
何本ものろうそくの灯りに照らされても書庫は薄暗く、月夜の幻に感じられたが、古い書物の臭いはそれを否定していた。
何歩か進んだ若い男は燭台が置かれた机の上に積んであった一冊を手に取り、それを開いては目を細めて音読した。
「ああ、お師匠様、すっかり困り果ててしまいました わたくしが呼び寄せた霊どもを どうにももてあましておるのでございます」
「……読めるのですね。驚きましたよ」
後ろから聞こえた声に若い男はつぶやいた。
「…………教会の地下には……秘密がある、と何かで読んだことがあった。…………。こんなに、こんなに、本が残ってるとは……」
「……我が同志から隠すのは大変でした。周りに粛清したい者が多くて、わたしたちの方へ手が回らなかったのは幸いでした。わたしの三人の兄を含め、多くの軍人が粛清の犠牲となったのです。……寄贈された本もありますし、ここに保管しておいてほしい、とわたしたちへ託された本もあります」
「…………」
「アレクサンドリア図書館ほどはありません。残念ながら……」
「……なぜ、俺をここへ……」
「……わたしたちの見た目はヨーロッパ人ですが、その内部はアジア人ですよ。……思い違いをしないでほしいのです。教え込まれた主義主張や思想が異なるためにお互い戦っているだけのことです。……わたしたちはあなたたちをそれほど憎んではいません。……安心してください。シベリア送りにはなりませんよ」
「……情けをかけるつもりか?」
「……あなたの気持ちはわかります。異国の地で囚われ、生まれた国の土を再び踏めるかどうかわからず、もしかしたら……牢屋から連れ出されて、小銃で撃たれてしまうかもしれない。……そんな心境だったなら、誰であっても反抗的になりますよ。無論、わたしであっても。……以前、目にしたので、お聞きしたいのですが……わたしたちは人が人を殴るのを極端に嫌います。……あなたたちは違うようですね? 同胞を吊るし上げるのが好きなのですか?」
「……油紙へ火が付いたようだ。坊主、お前に何がわかるんだ?」
「……申し訳ありません。世俗を捨てた身ですので、恐怖がないのですよ」
「……ぶん殴ってものを教える。……ガキの頃から大人は怖いものだった。好き勝手できる、自由にしてもいいってのはな、何よりも先に権力があって、初めてできることだった。……権威に従わないヤツは悪者だって決めつけられて、罰を受けてきた。……そう、そうやって、俺らはしつけられてきたんだ……」
「……お気の毒に。わたしの父母は農民でしたが、四人いる息子を殴ったりは一度もしませんでした。……あなたたちを敵とは思っていません。……だから、ぶん殴ったりはしませんよ」
「…………」
「……愛する国へ帰ったら、何をしたいですか? ……夢は? 希望は? 目標は? ……それらはありますか?」
「…………」
「……言ってみてください。……ここにはわたしとあなたしかおりません。……何を恐れているのです? あなたは勇敢な兵士でしょう?」
「…………。勇敢だって? はッ……お前ほどじゃない。口が減らないな、坊主。……ああ、そうだな……。船の……大きな、船の船長になりたい……ガキのときから、それが夢だった……。もしも、生きて帰れたら……」
「……帰れますよ。わたしたちとしても、あなたたちは生まれた国へ戻ってくれた方がいいんです。ここで捕まっているのは可哀想ですから。……見張りの兵には日時をこちらから伝えておきます。……あなたたちが走り去る際、機関銃で撃たれたりはしないように」
「…………」
「…………ミネルヴァの梟は黄昏を待ってようやくその翼を広げる……有名な格言です。この言葉の意味がわかりますか? ……栄一さん?」
「…………」
「……わからなくても、恥ではありません。いつかわかるときが訪れます。……船には乗れますよ。あなたが船長ではないでしょうけれど。……わたしは上にいます。ごゆっくりどうぞ……」
カン、カン、カン、カン、カン、カン……と、汚い色の衣で身を覆った僧侶は足音を響かせ、螺旋階段を上がっていった。
響く足音が消えてから、栄一と呼ばれた若者はひとりごちた。
「…………わかっているさ。それはヘーゲルの言葉だろう。……ある事象の哲学的研究はその事象が完結して初めて可能になる、という意味だ。……敵だったヤツをそれほど憎んでないのは本当らしい。……ただ……雄弁は銀、沈黙は金とは学ばなかったらしいな、坊主……」
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