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黒いメガネのおじちゃん
「くろいメガネのおじちゃんがいるよ」
4歳の息子が立ち止まった。しかし、辺りを見まわしても誰もいない。
「どこにいるの?」隣にいる息子からは見えているのに、なぜ見つけられないのだろうか。息子と同じ目線になって探してみても、見つけることはできなかった。
「あっちだよ」息子が指をさした方角には、山がある。木の陰に誰かがいるのかも知れないと思い、目を凝らしたが——やはり、人影はない。
それでも息子は、誰もいない山に向かって手を振っている。段々と気味が悪くなってきたサトミは息子を抱き上げて、急いで自宅へ戻った。
翌日も幼稚園に息子を迎えに行き、いつもと同じ道を歩いて帰る。
すると、前日に立ち止まった場所で、また息子が立ち止まった。「こんにちは」息子は近所の人に挨拶をするのと同じように、山へ向かって手を振る。
本当に、誰かがいるのが見えているのかも知れない、と思った。
「ねぇ、どんな人がいるの?」
何かと人間を見間違えている可能性もある。自分が安心したくて訊いた。
「くろいメガネのおじちゃんだよ」
「うん。昨日もそう言っていたよね。じゃあ、どんな服を着てるの?」
「みどり色の服でね、おじいちゃんみたいな帽子をかぶってるよ」
緑色の服を着ているのなら、木や草の緑と同化していて、見つけることができないとも考えられる。それに『おじいちゃんみたいな帽子』が麦わら帽子のことなら、かかしを人間と見間違えているのかも知れない。
——うん。やっぱり、この子の見間違いだよね。
サトミは自分に言い聞かせた。幼い子供は、この世のものではないものが視えると訊いたことがあるけれど、ただの見間違いに違いない。そう考えながら、帰ろうとした時。
「おじちゃんは『おーい』って、言ってるのかな?」と息子は首を傾げた。
「え……? どういう意味?」
「だっておじちゃん、ずっとこんなおくちをしてるもん」
そう言うと息子は、口を縦に大きく開いた。顔に力が入っているのか、目も眼球が飛び出しそうなほど見開いている。『おーい』と呼んでいるというよりは、苦しそうな表情だ。
一気に全身が粟立ち、恐ろしくなったサトミは、近所に住んでいる父に相談した。気のせいだと笑われるかも知れない、と思っていたが、父は真剣な顔で話を聞いて「分かった」とだけ言った。
後日、父から電話がかかってきた——。
息子が「くろいメガネのおじちゃんがいる」と言った山で、60代の男性の遺体が見つかったのだという。男性は3ヶ月前に山菜を取るために山へ入り、行方不明になっていたようだ。
「俺も捜索に加わって遺体を見たんだけど、あの姿で現れたのなら、4歳の子供には『くろいメガネのおじちゃん』に視えたかもな。随分と腐敗が進んでいて眼球は無くなっていたし、苦しかったのか、口が大きく開いていたよ。それが『おーい』と言っているように感じたのかもな」
腐っていく自分の身体を憐れんだ男性が、見つけてくれと訴えていたのだろう、と父は言った。
——そんな姿になってしまう前に、家族の元へ帰らせてあげられたらよかったのに……。
幼稚園からの帰り道で立ち止まり、山に向かって手を合わせた。
「さぁ、帰ろうか」
声をかけると、息子はニコニコとしながら山を見ている。そこには人影はなく、動物などの姿もない。
「何かいいことがあった?」訊くと、息子は満面の笑みを浮かべて言った。
「くろいメガネのおじちゃんがねぇ、おいでおいでしてるよ」
〈了〉
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