【第六話 銀輪躍動】

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深緑色のそれは、水しぶきをあげて跳ねる魚の姿だった。隣には『銀鱗躍動』という四文字が記されている。それは医師という立場にそぐわない、まさに『刺青(いれずみ)』そのものであった。 その最初の発見者は、よりによって患者、それも重要人物だったのだ。 患者は胃潰瘍のフォローアップ内視鏡検査を受けていた。鈴木が病変の改善を確認し、水村に交代したところだった。鈴木にとって、手技を交代したのは研修医を成長させるための親心にすぎなかった。しかし、それが裏目に出て、患者が刺青の第一発見者となってしまった。 横たわっている患者は、袖の奥に黒光りする模様を見て憤激し、みずから内視鏡を引き抜いた。そして、指導医である鈴木を責め立てた。 「あんた、この研修医の指導医なんだろ? ったく、あんな非常識なやつ、よく患者の前に立たせられたものだ。どれだけ図太い神経しているんだ! ああ!?」 「申し訳ありません、私も刺青については承知しておりませんでした……」 「はんっ! この病院は上から下まで駄目な奴の集まりなのかよ! しかも、よりによって私の検査を研修医にやらせるなんて信じられん!」 「あ、ええと、その……」 不運なことに、その患者は病院の予算を決定する議員のひとりだった。いかなる患者にも差別なく接することを信条としていた鈴木にとって、立場を振りかざす人間への対応は困難を極めた。特別な扱いを受けて当然と思っているから始末に負えないのだ。 結局、指導医である鈴木はしどろもどろな対応しかできず、患者が納得することはなかった。 その直後、痛烈なクレームの投書が病院の執行部宛てに届いた。名指しで非難されていたため、当事者が誰なのかその場で特定された。しかも、専門の医療弁護士にも相談したところ、病院自体の体質を問題視するような辛辣なコメントを受け取ったとのこと。その医療弁護士の名は――『石渡密(いしわたりひそか)』と書かれていた。 聞いた前田は背筋が冷たくなった。その弁護士の放つ厭な雰囲気は、黴のように前田の記憶にこびりつき、いまだに消えないのだ。 「鈴木先生、水村先生、狭山茶です。気持ちが落ち着きますので、温かいうちにどうぞ」 三人分のお茶を運び、テーブルの上にそっと差し出す。前田は緊張で指の震えが止まらない。しかし、鈴木と水村のふたりは、前田の動揺に気づく余裕はなかった。
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