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「鰹の漁が最盛期を迎えた頃のことでした。兄の匠は知人とともに荒れた海に出ていきました。旬の獲物は逃せないと頼み込まれ、断れなかったそうです」
「お父様は漁師とおっしゃっていましたが、反対しなかったんですか」
「海の男は、漁に出るかどうかは自分で決めるものだと、判断を本人に任せました。――でも、結局はそれがいけなかったんです」
母は涙を浮かべ、後悔の色をにじませている。
「そうだったんですか……」
「数日後、匠の遺体は陸に漂着しました。結局、最後まで見つからなかった方もいたんですが」
前田はふと、その現実に疑問を抱いた。
「こんなことをお尋ねするのは失礼かもしれませんが、溺死されたご遺体がどなたなのか、判別できるのでしょうか」
長時間海に沈んでいれば遺体は膨れてしまう。服が剝がれればさらに特定は難しくなる。
遺伝子解析で身内との相同性を調査することはできるだろうが、それはあくまで現代にもたらされた文明の利器だ。
けれど前田の疑問を覆すように、母はさらりと答える。
「ですから漁師はみな、腕に刺青を入れているんですよ」
「刺青を、ですか?」
「はい。それが名刺代わりのようなものです。海に沈んだ者にとっては」
なるほどそうなのか。漁師たちが皆、刺青をしていた理由が腑に落ちた。
「『豊漁祈願』と書かれた刺青で本人が特定できました。だから漁業保険制度の保険がおりたんです。こんな零細漁師の家の息子を医学部に進学させてあげられたのは、匠の命と、その刺青があったからなんです」
「そうだったんですか……」
そうだとすると、水村海太の腕に刻まれた刺青は、一般人の理解とは異なった意味を持つに違いない。
漁師の老人が語った「命を懸けた男の象徴」とは、漁は命がけの戦いだという意味なのだ。
そこまで聞いて、前田は本題に踏み込もうと決意した。
「ところで海太君の腕にも刺青がありましたね。彼も漁師を目指していたんでしょうか」
「海太はなにも言いませんでしたが、そうだと思います。あの子は昔から兄の背中を追いかけていましたから」
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