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前田にそう言われた水村は、自身の左腕を強く掴んだ。刺青が彫られている場所だ。
水村の脳裏には十年前、兄と交わした言葉が蘇っていた。まぶたを閉じて過去を思い返す。ふたりが並んで海に釣り糸を垂れ、語り合った時のことだ。
「俺、高校を卒業したら兄ちゃんと一緒に漁師になるよ!」
「おいおい海太、お前は賢い奴なんだから大学に進めよ。自分の才能を見間違うな」
「やだよ、大学なんてお金かかるだろうしさ。俺と兄ちゃんで頑張れば父ちゃんと母ちゃんに楽をさせてやれるだろ」
「お前なぁ……、海ってのは気まぐれだ。自然相手の仕事は言い訳がきかねえ。漁師ってもんは、いつ海の藻屑になるかわからねぇんだ。もしもふたりで海難事故に遭ったら水村の血は途絶えるんだぜ」
「でも……でもっ! 俺は兄ちゃんやこの街の役に立ちてえんだ」
「お前にしかできないことだってあるはずだ。たとえば――そう、この街の漁師を元気にさせる仕事っつうのはどうだ?」
「元気にさせるって……どんな?」
「そうだな、できることなら――医者ってのはどうだ。お前ほど賢いやつならなんにだってなれるって、俺は思っている。俺も頑張って働いて稼ぐから、お前はとにかく勉強を頑張れよ」
「嫌だよ、俺も海の男になって兄ちゃんみたいなかっこいい刺青を彫ってもらうんだ」
「そうか、そんなに刺青が欲しけりゃ、俺が彫ってやるよ。たとえ医者になってもお前は海の男だっていう証明のためにさ。というわけで、刺青師の鏑谷さんに弟子入りしてくらぁ」
「まじかよ、じゃあ兄ちゃん頼むよ! 俺、兄ちゃんに彫ってもらったら、一生消さずに大切にするから!」
「それに、俺が鏑谷さんに弟子入りする理由はもうひとつあるんだ」
「なんだよ、もうひとつって」
「それは内緒だよ。でもいつか、お前なら気づくと思うんだ。もしも本気で医者を目指すならな――」
思い出から舞い戻ってきた水村は、ゆっくりとまぶたを開いた。
「水村先生、あなたが刺青について語らなかったのは、お兄さんの背中を、その美徳を追いかけているからなんですね」
水村は、はっとして顔を上げた。湿り気を帯びた表情は、彼の心の中にたゆたう憂いを物語っている。
「あなたのお母さんに聞きました。お兄さんの口癖は、『海の男は不満なんか言うもんじゃねえ。大海に言い訳は通用しねぇからな』だったそうですね」
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