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窓越しに見える空はすっかり暗くなっていた。見上げると夜空にひときわ明瞭な九夜の月が浮かんでいる。途方に暮れた前田は空を見上げてひとり呟く。
「咲ちゃん……おじいちゃんが亡くなってショックだったんでしょうね。きっと仲良かったんだろうなぁ……」
西成はその思いを汲み取るように言葉を返す。
「たぶん、そうなのでしょう。カルテの看護記録によれば、患者さんの妻はすでに他界していて、家族は四人暮らしのようでした。患者さんと息子夫婦、そして孫娘の咲ちゃん。それに息子夫婦は共働きであったとのことです」
前田は驚いて西成を振り向いた。
「それなら、咲ちゃんは小学校から帰ってきた時、おじいさんとふたりきりだったはずですよね。病気で体調が悪いおじいさんを気遣っていたのかもしれないですね」
「ああ、前田さん、その想像は的を射ているのかもしれませんね。咲ちゃんはおじいさんを励まし、時には慰めていたのではないでしょうか」
「じゃあ、おじいさんは次第に残りがなくなる人生の時間の多くを、孫娘の咲ちゃんを愛でるために費やしたのかもしれないですね。病気のことも、いずれお別れがくることも、咲ちゃんに話していたのかもって思います」
西成はふっと鼻から息をもらし、前田の視線を追って空を見上げる。浮かぶ月を眺める瞳は深い輝きを宿していた。
「前田さん、もしかしたらすべてがつながるかもしれません」
その言葉に前田は、はっとなった。
これから儀式のような、西成の熟思黙想が始まるのだと察する。
西成は壁際に据えられた棚に足を運び、一枚のレコードジャケットを選んで引き抜いた。空け口に手を添えて逆さにするとレコード盤の縁が顔を出す。慎重に縁を手のひらで挟んで取り出し、レコードプレーヤーのターンテーブルに載せた。メーカーはクロスリーで、それはヴィンテージもののプレイヤーだ。
指掛けに指を添え、アームを手動でアームレストから外す。回転する盤面に針を下ろすと、西成は一歩下がって両手のひらを天井に向けて掲げ、ゆっくりと腕を広げた。その厳かな振る舞いを前田は黙って見つめている。まるで時間が凝固したかのようだ。
突如、西成の手が振り下ろされる。すると操られたかのように空気が震え、音楽が鳴り始める。繊細で雄大なクラシック音楽が無機質な事務室をコンサート会場へと変貌させてゆく。
曲はピョートル・チャイコフスキーの『交響曲第六番 悲愴』。音楽の歴史に残る名曲である。
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