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なぜオーケストラの曲を再生するのか――それは曲に没頭しながら得られた情報を脳内で整理し、事件の全容を俯瞰するためである。
まるで指揮者がすべての奏者の旋律を聴き分けるかのように。
しばらく指揮を続けていた西成だったが、突然、ふっと手を止めた。深く息をついてから振り向いて前田と視線を合わせる。
「前田さん、この曲を作曲したのはチャイコフスキーですが、じつは『悲愴』の初演のわずか九日後に急死しているのです」
「えっ、そうなんですか!?」
意外なことを聞いて驚いた前田だったが、西成が音楽史を語る意図は理解できないでいる。曲は鳴り続いていた。
「その死因には諸説ありますが、この曲は己の死を悼むために作曲されたとも言われています」
「まさか、チャイコフスキーは死を予見する能力があったとでも言いたいんですか?」
「いえ、そうは言えません。自殺という説もありますから。けれどそうだとすれば、『死』を間近に感じていたからこそ生まれた曲なのかもしれません」
たしかにこの曲の繊細で物憂げな旋律は、人生のはかなさを感じさせるようだ。西成はひと息ついてから続ける。
「現代の医学では、患者さんは『余命』について知らされ、その中で最善の治療を選択する権利を持っています」
『余命』とは、同じ状況にある患者の半数が生存している期間を指す。そして『余命』を知るということは、同時に『死』の宣告を受けることでもある。
「けれど患者さんには治療を終了する権利もあるはずです。だけどこの患者さんには、その意志を示す機会がありませんでした」
前田は西成の意図することがおぼろげながら理解できた。すると銀縁眼鏡の奥の視線が鋭さを増す。
「私には、咲ちゃんがどこにいるのか、見当がついたのです」
「えっ、ほんとうですか!」
西成にはすでに事件の核心を捉えているような自信を漂わせている。そして信念に満ちた表情でこう言ってのけた。
「それだけではありません。この医療過誤の事件は、けっして罪ではないのです。罪であってはならないことなのです――」
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