【第一話 神様と小さな天使】

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★ 患者の遺体が寝台車に乗せられる。ストレッチャーが後部座席に滑り込み、バックドアが閉じられた後、息子と妻が深々と頭を下げる。 裏口の駐車場は、檸檬色の月明かりに淡く照らされていた。 息子夫婦は申し訳なさそうに声を揃えて言う。 「今まで大変お世話になりました」 その場には西成と前田だけでなく、主治医の三上、事務長、師長、そして勝俣の姿もあった。皆、沈黙を守りつつも、腑に落ちない感情が表情に浮かんでは消えており、その奇妙な光景が場の空気を支配していた。 事情を把握しているのは咲を含めた遺族と、西成、それに秘書の前田だけだ。前田は離れた街灯の下でペンを走らせ一部始終を記録している。 母に寄り添う咲は西成を見上げて息を吸い込み、唐突に声をあげた。 「神様のおじさん! あたし将来、絶対看護師さんになるっ! それで、たくさんの人を助けるから、おじさん、絶対、神様やめないでね!」 晴れた月夜のように輪郭の明瞭な声が、しじまの深い風になる。西成はらしくない照れた笑みを浮かべる。 一歩踏み出して咲の目の前にしゃがみ込み、その頭を優しく撫でた。 咲は両親の手前、肩をすくめて恥ずかしそうな顔をする。 「ああ、きみは必ず素敵な天使になれるよ。神様のお墨付きだからね」 そのひとことに咲は、満月のような笑顔を見せてくれた。皆は不思議そうな顔でそんなふたりの様子を眺めている。 遺族たちが乗り込んだ寝台車がゆったりと動き始める。スタッフは頭を下げて見送った。患者さんとの、永遠のお別れの儀式。 去りゆく寝台車が夜に溶けてゆき、視界から消えたところで皆、頭を上げた。 終始、腑に落ちない顔をしていた三上が西成に小声で尋ねる。 「西成先生、医療事故が起きて酷い剣幕だった息子が、こんなに穏便になって、しかも事故の調査自体を拒否するなんて、あなたはいったいどんな説得をされたんですか?」 西成は思い出すように夜空を見上げる。普段よりもやけに月が眩しく見えた。その輪郭に咲の声を重ねて思う。 「さあ、どうでしょうね。でもそれを理解するためには、三上先生も自分が最期を迎える時のことを、本気で想像してみたらいかがでしょうか」 「それはいったい、どういう意味ですか……?」 なおさら怪訝そうな顔をする三上に対して、西成は目尻に皺を寄せた。 その表情は、慈愛に満ちた神様の優しさと、心をえぐる悪魔の残酷さが同居しているかのようだった。西成は重々しく、天を仰ぎながら呟いた。 「答えは月明かりが知っていますよ」 悠然とした西成の背中を、前田は街灯の下からじっと睨み続けていた。
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