【第二話 オーバーカム・ザ・バイアス】

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「はぁぁぁ……」 秘書の前田美穂は出勤してからというもの、ため息を連発していた。彼女の表情は、晴れ渡る空に突如現れた暗雲のように陰りがかかり、仕事への意欲も霧散していた。 「前田さん、どうされたんですか。体調が悪いのでしたら無理しないでください」 普段と違う前田の様子に、上司の西成仁が心配そうに声をかける。彼の眉間には軽い皺が刻まれ、優しさと懸念が混じった眼差しが前田を包んだ。 不意に尋ねられた前田は、西成の気遣いを跳ねのけるかのように即答する。 「なっ、なんでもありません! どうせ西成先生には関係のないことですから!」 「そうですか、それならそのため息は気にしないことにします」 「ため息なんかついていません!」 「それじゃあ、まあ、私の空耳ということで構いませんが……」 前田はデスクから立ち上がり、テーブルの上に置かれた湯呑みを片付け始める。つい先ほどまで応接に暇がなかったので洗い物が溜まっていた。窓際の小さな流し台には、湯呑みと菓子皿が山積みになっており、その光景は忙しさの名残を物語っていた。 『診療部門特別相談室』には、なにかと相談に訪れる者が後を絶たない。 医療の現場では医師や看護師、そして患者らがさまざまな疾病と戦い命のやり取りをしている。けれど人間を相手にする以上、トラブルは不可避とも言える。 医療過誤、あるいはその疑いに起因する示談や訴訟に限らず、不条理なクレームや、はたまた逆恨みの殺人予告まで、さまざまな案件が寄せられてくる。トラブルに巻き込まれる医療従事者はけっして少なくない。 西成が手腕を振るうのは、そんなトラブルに巻き込まれた医療従事者を不条理から救うためであり、その実力は折り紙付きである。時には人生相談や恋愛相談まで受けることもあるくらいだ。 けれど、前田自身は西成に悩みを相談するつもりなど毛頭なかった。どうせ相談したところで、なんの解決にもならない案件だからだ。 幼少時からファンだったアイドルグループが、昨夜、解散を発表してしまったのだ。あまりのショックに目を泣き腫らし、いまだにまぶたのむくみが取れていない。 心に冷たい風が吹き抜ける前田は、やり場のない気持ちをぶつけるがごとく、ガチャガチャと乱雑に音を立てながら湯呑みを洗う。そんな前田の姿に西成はやれやれと肩をすくめた。 「でも前田さん、今日はとびきり厄介な案件のアポイントメントが入っているんですよ」 西成がそう言うと、前田はかくんと肩を落とした。せめてこんな日は誰とも会わずに一日をやり過ごしたかった。 「……はぁ」 「また、ため息をつきましたね」 「今のはただの返事です! 承知しました、の省略形です!」 「あっ、そうでしたか。まぁ人生、出会いもあれば別れもありますよ。落ち込んだのでしたら、話だけでも聞きますけど」 西成は彫刻のような顔立ちに浮かぶ口元を三日月のようにしならせて尋ねる。悪戯っぽい言い方にむっとした前田は、デスクに鎮座するイケオジ上司を厳しい目で睨みつける。 「振られたとかそういうのじゃありません! それどころかわたし、彼氏なんていませんから!」 「ああ、やっぱりそうでしたか」 「やっ……やっぱりってなんですか! 西成先生、なんかいろいろ失礼ですよ!」 前田は頬を桜色に染めてぷいっとそっぽを向いた。
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