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診療部門特別相談室の扉が控えめなノックで揺れる。その音に、前田美穂は心の中でため息をついた。また厄介事がやってきたのだろうか。
西成仁はすでに来訪者の足音を聞き分けていたようで、落ち着いた声で迎え入れる。
「どうぞお入りください」
「……失礼します。松川慧介です」
松川慧介という名前に、前田は息をのむ。彼はゆっくりと扉を開け、謙虚に頭を下げた。
前田はこの病院で働き始めてから一年が経とうとしていた。スタッフの顔と名前はほとんど覚えている。その中でも、松川慧介は特別な存在だった。
彼は呼吸器内科の医師で、常に笑顔を絶やさず、前向きな姿勢で周囲からの信頼も厚い。そして、彼の顔は前田が応援していたアイドルグループのメンバーに似ていた。今まで接点はなかったが、突然の出会いに前田の心臓は高鳴った。
しかし、松川の雰囲気はいつもとは違い、重苦しさが漂っていた。何か大きな問題を抱えていることは明らかだった。
西成は彼の表情を見極め、穏やかに言葉をかける。
「松川先生、まずはソファーに座ってください。コーヒーでもいかがですか?」
「いえ、結構です。そんな気分ではありません」
松川の声は動揺を隠せていなかった。
「松川先生が相談したいのは、レントゲンで肺がんを見逃したという案件ですね」
聞いた前田は緊張感に支配され、思わず背筋をぴんと伸ばす。松川はうつむきながら、申し訳なさそうに話し始めた。
「はい、呼吸器内科医として、これほど恥ずかしいことはありません」
「医療トラブルは初めてですか?」
「いえ、研修医時代には小さなミスはありましたが、裁判沙汰になるのは初めてで……」
「それは大変ですね。私ひとりでは対応しきれないかもしれません」
西成は眉間にしわを寄せながら、前田に目を向けた。
「今回は前田も手伝ってもらいます。彼女なら頼りになりますよ」
「えっ、わたしが?」
前田は驚きとともに、戸惑いを隠せなかった。彼女は、今日に限っては松川との面会を避けたかった。昨夜の涙で腫れたまぶたを見られたくなんかない。
「かっ、構いませんけど……わたしにできることなら」
前田は松川から視線を逸らし、湯呑みを拭きながら応えた。
「それでは、前田さん、今の話を聞いて、何か気になる点はありますか?」
西成は前田に挑戦的な質問を投げかけた。普段は往々にしてギブアップするところだが、今回ばかりは格好悪いところを見せられない。
「えっ、ええと、たしかに変ですね……」
前田は背中を向けたまま心を集中させて、今まで西成が扱った「所見の見逃し」の案件をいくつか思い出してみる。
すると前田はこのトラブルの不可解な点に気づいた。冷静を装い、背中姿のまま察してみせる。
「画像所見の見逃しって、医療過誤の中では比較的多い事例だと思うんです。
でも画像の証拠が残っていますから、裁判になればたいてい白黒がつきますよね。
ですからこういったケースでは病院のほうは素直に過失を認めますし、裁判まで持ち込まれることは少ないと思うんです。
それなのにどうして示談じゃなくて裁判を起こそうとしているのか、それがわからないなぁ、って思いました」
「さすがです前田さん、いつもながら良い洞察力をしていますね」
松川の目の前で褒めてもらえるのはありがたいけれど、医療過誤の話だけに素直に喜べる状況ではない。あくまで背中を向けたまま、当然ですといった雰囲気を醸し出してみせた。
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