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静かな診療部門特別相談室の隅には、患者情報が詰まった電子カルテがひとつ、静かに佇んでいる。
電子カルテが導入されてから、病院に勤める医療従事者は患者情報に簡単にアクセスできるようになった。しかしアクシデントが起きたり有名人が入院したりすると、スタッフが興味本位で閲覧することがあり、病院の倫理観が問われる事態となり得るのだ。だから特殊な患者に関してのアクセス権限は一部のスタッフにしか付与されない。
しかし西成だけはあらゆる患者情報にアクセスする権限を与えられている。西成が自身のIDでログインし患者のカルテを開くと、松川はいくぶん驚いた表情になった。
「それでは松川先生、詳しい状況を教えてください」
「はい。患者さんは桜木敦子さん、五十五歳の女性です。一年前の健康診断で僕は異常を指摘しませんでしたが、今年の健康診断で異常を指摘され手術になりました。
すると現在診療を担当している胸部外科の医師が『一年前にもありそうに見えますよ』と患者とその家族に説明したことが発端です。
しかもそれは肺がんの診断がついてから突然、言い出したことなんです」
聞いた前田は、なるほどしばしば耳にする話だなと勘案する。ほかの医師が見落としたものを、自分が見抜いたかのようにアピールする輩が、医者の中には一定の割合で存在する。誰かを否定することで主治医としての信頼を得たいのか、あるいは自身が有能なのだと誇示したいがためか――いずれにせよ、患者の立場では松川が異常を見落とし、病院がそれを事実として認めたとしか映らない。
「松川先生の読影は正しかったとしても、問題視された理由の根底はそこにあるようですね」
事態を察した西成がそう言うと、前田は松川を擁護するように、背中を向けたままうんうんと大きく首を縦に振る。
そんな前田の気遣いを感じ取った松川は、ようやっとこわばった表情を緩めた。
「しかも訴えてきたのは患者さんではなくその旦那さんで、どうやら省庁に勤めているエリート官僚らしいです。有能な医師の『神の目』なら当然、肺がんを見つけられたはずだ、と主張しています」
「神の目ねぇ……」
西成は訝しげに言う。
「人間に神を求めること自体が、大きな間違いなのですが」
西成は言葉の抑揚を一定に保ちつつ続ける。
「その呼吸器外科の医師もご家族の方も、結論ありきで言っているのですね。ところで患者さんは今、どんな状態でしょうか」
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