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「はい、根治手術が可能な状態で、すでに手術を施されていますが、病期は初期ではなく化学療法が必要な状態でした。旦那さんは見逃しによって金銭面、精神面および肉体面において過大な負担を強いられ、命の危険に脅かされることになったと主張しています。一年前に見つかっていればそうではなかっただろう、と」
「じゃあ松川先生が今、その写真を見て肺がんが存在すると思われますか」
「見直してみたところ、正直、あるようにもないようにも思えます」
そこで西成は画像ビューワを立ち上げてレントゲン像を表示する。前田は背後からそろりと近付き画像を確認したが、なにが異常なのか判断できるはずもなかった。西成も異常所見を指摘できないようで首をひねっている。
「正直、私の目ではわかりませんね。松川先生、肺がんが発生した部位はどこですか」
松川は画面に映るレントゲン像を指差しながら「右下肺野のこの辺りです」と言う。しかし、それは専門家の目でも見分けられるか微妙な影で、確信には至らないものであった。
前田は現役の医師が読影しても判然としない所見に白旗を上げ、顔を隠しながらおずおずと流し台に戻っていった。
確認した西成は立ち上がり、ぽんと軽く松川の肩に手を置く。
「ふうむ、神でしかわからない、あいまいな所見を都合よく異常だと主張しているわけですね。けれどもしも見逃しだとしても、先生だけの責任ではないと思います。検診での評価はふたりの医師でおこなう、ダブルチェックのルールがあったはずです」
「そうですが、もうひとりは派遣で非常勤の先生で、すでに退職しており連絡が取れないようです」
「ああ、そうなんですか」
ダブルチェックをすれば診断精度は高まると思われがちだが、そのプロセスが油断を招き、致命的な見逃しを引き起こす皮肉な結果になることもある。だから、この案件は松川の油断と解釈されることうけあいだ。
西成は端正な下顎を指で擦りながら納得した様子を見せる。
「なるほど、先生がひとりで厄介事を抱え込んでしまったことになるわけですね」
すると松川の表情はさらに影を濃くする。
「はい。それとですね……その三か月後、患者さんは咳と発熱でこの病院を受診しまして、その時も僕が診察しています。肺炎かもしれないと思ったのでレントゲンを撮ったのですが、結局は肺炎でも肺がんでもなくA型インフルエンザでした。そのレントゲンもやはり陰影の有無は微妙でした。あるともないとも言えないような……」
「つまり検診のレントゲンで肺がんがあるということになれば、松川先生は二重の見逃しをしたのだと解釈されるのですね。ますます厄介です」
松川は西成におそるおそる尋ねる。
「……こういった場合、裁判になれば負けますよね」
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