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西成はしばらく考え込んだ後、気遣いを含んだ冷静な声で言う。
「先ほど前田さんが指摘したように、レントゲンの見逃しのような証拠の残るケースは訴訟になれば敗訴します。しかも厄介なことに、たとえそれがレントゲンの検出限界以下の病変であっても、です」
松川は緊張の色を浮かべる。
「どうしてなんですか」
「それは科学的な判断においてバイアスがあるからです」
「裁判という公正なはずの裁定にバイアスですか……」
バイアスとは偏見であり、また判断を誤らせる重要な要素である。
「松川先生、よろしいですか。裁判では専門医に画像所見の読影を依頼し、意見を聞いて判断の材料にします。けれど、あとで肺がんが判明したとわかっている症例の画像に対して『なにもない』と言い切れる医師はどこにもいないからです。
病気が『存在する』ことを証明するのは簡単ですが、『存在しない』ことを証明するのは非常に難しいのです。我々はまさに『悪魔の証明』を強いられることになるのです。
しかも専門医として法廷で証言する自信のある医師なら、ほかの医師が見逃した所見であっても、自分には見えるはずだと過信するものです。その虚栄心が存在しない疾患すら網膜に映し出してしまうのです。
ですから原告側につく協力医の多くは、真実ではないかもしれない見解すら嬉々として口にするものです」
松川は緊張で喉が乾ききっていた。不安を抑え込むように唾を飲み込む。
「そのバイアスを克服する方法はないのでしょうか」
「それがあれば苦労はしないんですよね……」
西成は思慮深げに両手を組み、ソファーにゆっくりと腰を下ろした。評判の敏腕弁護士でさえお手上げムードの展開に松川は肩を落とし、重い霧がかかったようにうなだれた。
真実にかかわらず裁判になれば敗訴は確実という不利な状況に、前田は松川が気の毒でならなかった。
――松川先生の力になれる資格と頭脳が、わたしにあれば良かったのに……。
その時、前田のデスクに設置されている電話が鳴り響いた。素早く手を拭き電話に応対する。
「はい、診療部門特別相談室です」
すると受話器の向こうから聞こえた声は、あまりにも意外な人物からだった。
「はじめまして。私は弁護士の石渡密と申します。西成先生はおいででしょうか」
弁護士の石渡、と聞いて前田の背筋がぞわりとする。
「はい、おりますがご用件はなんでしょうか」
「レントゲンの異常所見を見逃したという、れっきとした医療過誤の、ですよ」
わざと低くしたような声で、威圧的な口調だった。送話口を押さえて西成に相手の名前を告げると、西成は心当たりがあるようで、すっと視線を鋭くした。
「前田さん、録音していただけますか」
「わかりました」
前田は録音ボタンを押下してから受話器を西成に渡す。
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