【第二話 オーバーカム・ザ・バイアス】

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★ 「あっ、あの……松川先生、もしよろしければ夕食でもしながら、詳しいお話を聞かせていただけませんか」 前田が男性を食事に誘うのは初めての経験だったので、その緊張感が隠しきれなかった。 「これは仕事だ。そう、仕事に違いないのよ!」と自己暗示をかけ続けたが、いざ松川を目の前にすると顔が熱くなりもじもじとしてしまう。 けれど松川の返事はいたって快いものだった。 「はっ、はい! ぜひお願いします、前田さん!」 その返事に前田の心臓は高鳴った。 ふたりが向かったのは、病院のほど近くにある、暖かい灯りがエントランスを包む洒落たイタリアンのレストランだった。 「今日は誘っていただいてありがとうございます」 松川は年下の前田に対してやけに平身低頭だった。前田は松川との距離が近づいたことが嬉しくないはずはないけれど、嬉しそうな顔をするわけにもいかない。両手を目の前で振り振りして必死に真面目顔を繕う。 「いえ、そんな……ただ松川先生の抱える事情をもっと詳しく聞きたかったものですから。あの橋上先生の名前を聞いた時に、動揺された気がしたので」 松川は大きく目を見開いた。 「前田さんって、やっぱり洞察力が鋭いですね。西成先生の秘書を務められるんですから、聡明な方だとは思っていましたけれど」 前田は、西成先生の秘書というのが賢そうに見える「バイアス」なんじゃないかな、ほんとうの自分はたいしたことないのに、と居心地悪い気分になる。けれど松川の賞賛はまだ続く。 「西成先生のお部屋を訪れた時、医療過誤の話を聞いても冷静さを崩さず淡々と自分の業務をこなしていた背中姿に、僕は憧れすら抱きました」 松川の熱い視線に対して、前田は過剰な賞賛にきまり悪く、戸惑いを感じていた。なにせ真相は、腫れたまぶたを隠したくて壁と向き合っていただけなのだ。 しかも、涙した原因となったのはアイドルの解散で、そのアイドルの「推し」と松川の顔が似ているので松川のことが気になっていたとは口が裂けても言えない。 松川の抱く前田のイメージと現実の前田との間には、空よりも高く、海よりも深いギャップがあった。それを崩してしまっては、裁判を控えた松川を無駄に不安にさせてしまうだけだ。 前田は意を決して背筋を伸ばし、毅然とした態度で松川に告げる。
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