92人が本棚に入れています
本棚に追加
/114ページ
「お褒めくださり、誠にありがとうございます。でも今日はあくまで仕事の目的でお誘い申し上げたのです」
もしも仕事が絡むことなくこの状況でいられたら、なんて楽しい夕食になったのだろう、とひどく残念になる。
やむを得ず距離を置くと、松川はきわめて真面目な表情に戻って謙虚に謝罪する。
「すみません、まるで下心があるようなことを言ってしまって。じつは僕、出身がT大学の呼吸器内科なんです」
「えっ、T大学の呼吸器内科って、まさかあの橋上先生という教授がいる教室ですか!?」
驚いて開いた口を慌てて手のひらで覆う。
「ええ、あの橋上教授は僕の直属の上司だったんです――」
そして松川は自分の身上について語り始めた。
かつて松川が大学病院に所属していた頃、呼吸器科の主任教授であった橋上は、若手医師に対する贔屓と冷遇の差が激しく有名だった。そして松川は、悪い意味で目をつけられたひとりであった。
橋上は呼吸機能などの肺生理学を専門として研究していたが、それを知らなかった松川が、入局の際に「将来は肺がんの研究をしたいと思っています」と口にしたことが発端だったらしい。橋上はそれを自分に対する反発だと捉え、ことあるごとに松川に不条理な叱責を浴びせるようになった。
松川が大学を辞めた最たる理由は、橋上の不条理さに耐えかねたためだった。
しかし、松川は専門医資格を未取得だったため、専門医を目指して呼吸器内科の研修が可能な東山総合病院に就職した。
以来、この病院で日々の診療をこなしつつ、専門医を目指して研鑽を積んでいる。
「僕は過去のトラウマを払拭しようと、この病院で頑張っていたつもりです。それなのに、橋上教授は僕を追って魔の手を伸ばしてきたんです。それも罪のレッテルを貼り付けるために」
「そうだったんですか……それって一種のパワハラですよね。でも、橋上先生が教授という立場だったから、医局員は誰も逆らえなかったんですよね」
「大学には味方になってくれる人なんていませんでした。だけど、今はあの時と違って、少しだけ心強いです」
そう言うと、松川は急に身を乗り出して前田の手を取り、握りしめた。
「あっ、えっ……!?」
最初のコメントを投稿しよう!