【第四話 時を止めた研究者】

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森山は悟られまいと平静を装ったが、内心は激しく動揺し、嫌な汗がとめどなく噴き出ていた。 医療ミスとは、単に失敗を犯したから医療ミスなのではない。 必要なことがたったひとつ欠けていただけで、それが原因で患者が死亡したと認めざるを得ない事例も存在するのだ。 食事が摂取できない患者に対しては、中心静脈経由の高カロリー輸液を投与することが多い。これはさまざまな栄養素を含んでいる輸液である。 そして、高カロリー輸液を投与する際には、糖分の代謝に関連する重要なビタミンであるビタミンB1を併用しなければならない。ビタミンB1が欠乏すると、エネルギー産生のための好気性解糖が機能せず、代謝性アシドーシスという血液が酸性に傾く致死的な状態に陥るのだ。 そのため、高カロリー輸液を使用中にビタミンB1を投与せず患者が死亡した場合、死因に関わらず医療過誤による死亡と判断されるのが裁判の判例となっている。患者が死亡した後に、ビタミンB1欠乏症による健康被害を否定するなど不可能なことだからだ。 これらは過去に多発した事例であったため、現在では高カロリー輸液はビタミン製剤と抱き合わせになっている。しかし腎不全の患者に対する高カロリー輸液では、ビタミンが排出されずビタミン過剰症となるのを防ぐため、ビタミン剤が抱き合わせになっていないのだ。 現在、高カロリー輸液のビタミン欠乏に対する懸念はほぼ払拭されているため、このような事態はさらに起こりやすくなっているといえる。適切な対策がなされたことにより、むしろ危機意識が薄れてしまうのだ。 森山は狼狽した。一度は隠し通そうと邪念が沸いたが、動揺する森山を見る身内の目は猜疑心に満ちていた。森山は声の震えを抑えて言う。 「……我々も死因については再度検証してみますが、もしもカルテ開示を求められるのであれば、弁護士に相談してみることをお勧めします」 そう言えば、身内は恐縮し、それ以上の詮索はしてこないだろうと森山は考えた。 「わかりました。考えておきます」 身内が迷いなくそう答えたことは森山を不安にさせたが、遺体はすんなり引き取られ、患者家族は病院を後にした。 だが、それから数日後、カルテ開示の請求があったのだと、森山は病院の事務局から聞いた。 そして、相手(妻ではなく患者の兄らしい)は医療を専門とする弁護士を雇い、悠然と示談を申し入れてきたという。医療過誤の証拠を掴まれたと考えざるを得なかった。
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