【第四話 時を止めた研究者】

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★ 「西成先生、そういう事情なんです」 西成のもとを訪れた森山は明らかに焦燥していた。 東山総合病院に赴任してきたばかりの西成は医療事故の案件を扱った実績はまだなく、その手腕はいまだ認知されていなかった。 だから森山は藁にもすがる思いで西成の元を訪れたのだった。 「なるほど、事の顛末は理解できました。ところで、少々お尋ねしたいことがあるんですが」 「はい?」 「下調べをさせていただいたのですが、森山先生は医療には相当、真面目に取り組んでいらっしゃる方なのですね」 その言葉はいくばくか森山を安堵させた。 経験不足は医療ミスの原因となるが、多忙を極める日常もまた、医療ミスの原因となる。軽微なインシデントすら経験のない医師は、医療をおこなっていない者だけだ。 西成は森山の医療に対する姿勢や能力をまるで否定しなかった。その柔和で寛容な心遣いは、頑固な森山にさえ、西成を信用するに足る人物と思わせるのに十分だった。 森山は思わず西成に向かって頭を垂れていた。 「どうすればよろしいのでしょうか」 「判例では裁判になればほぼ敗訴しますから、示談にした方がよろしいかと思います」 「そ、それは困ります!」 野心的な森山にとっては、自分の意志で非を認めることは許されなかった。ほんとうにビタミンB1が欠乏していたとは限らないのに、判例に倣って罪の烙印を押されるのにはひどく抵抗があった。しかし、森山の抱えていた事情はそれだけではなかった。 東山総合病院は大学病院の関連施設である。診療が主要な業務とはいえ、研究実績の少ない者は将来的に重要なポジションにつけないのだ。診療実績でそれをカバーしようと躍起になっていた森山にとって、医療上のミスを犯したという汚点は、彼の客観的な評価を下落させることになる。 臨床医としての「売り」を失うことは、出世における大きなデメリットとなってしまうのだ。 飄々とした要領の良い男、金井の顔が脳裏をよぎる。金井は研究の実績は非の打ち所がなく、臨床もそつなくこなす。 同期の金井にだけは、病院の重要なポジションを奪われたくない。 自分に非があるのであれば、裁判沙汰は避けたいと考えるのが正常な思考である。しかし金井に後塵を拝している森山にとって、示談であっても負けを認めることは許されなかった。森山にとっては進退を賭けた事態だったのだ。 「裁判に持ち込んで構いません、どうにか勝てる方法はないでしょうか」 森山は必死の形相で西成に迫る。すると西成はいくぶん思考を巡らせてから、こう言った。
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