【第四話 時を止めた研究者】

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「はい、高カロリー輸液にビタミンB1を添加しなければならないことは、医学生でも知っている初歩的なものです。その点はインシデントケースであったことを認めます。しかし医療過誤が患者の健康被害に直結したのかどうか――つまりアクシデントケースであったのかどうか――それは明らかではありません。ですから私は科学的根拠を持たずして自身が裁かれることに、大きな矛盾を感じています」 実施するべき処方を失念したというミスは、書類への記載漏れというミスと同程度で起こり得る。しかし、それが医療の現場で起きたのであれば、あたかも犯罪のように扱われ、時には裁判にまで発展してしまう。 医療が担うリスクという脅威に、会場の空気が不安定に揺れた。だが原告にとって、それは医療サイドの事情に過ぎない。患者の兄は声を荒げた。 「なんだと、あんたはミスするのが当たり前って言っているのか、この無能な医者が!」 審理がまだ始まっていないにもかかわらず、患者の兄は感情に任せて罵声を浴びせた。森山は裁判官が秩序を律する前に反論を仕掛ける。 「では、命がかかっていなければミスをしても許されるとでも言うのですか。あなたはそうやって生きてきたんですね」 「貴様……ッ!」 法廷はまさに一触即発の雰囲気となった。原告は拳を握りしめ、いまにも殴りかかりそうな鬼の形相をしている。 森山もまた、きわめて挑発的な態度だった。どんなに心象が悪かろうが、それは裁判の行方とは別問題だからだ。勝気な森山は被告の立場でも臆することはなかった。 険悪な雰囲気を察した裁判官が、「静粛に。裁判を進めます」と一喝し、証拠調べを開始する。 森山が西成を一瞥すると、西成は岩のように堅固に構えていた。自信が溢れているようにも見えたし、虚空な雰囲気とも受け取れた。信頼したいと思うが、沸き立つ不安はまるで拭えなかった。 「それでは原告の代理人である石渡弁護士に、被告の非を示す証拠を提示していただきましょう」 「はっ。高カロリー輸液の添付文書には、1日あたり3 mg程度のビタミンB1を補充しなければならないと記載されています。しかし開示されたカルテの点滴オーダーによりますと、ビタミンB1製剤が投与された形跡はなく、その期間は一か月におよびました。これは明らかな医療過誤といえます」 石渡は自信満々に独り舞台の主役の座を続ける。
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