【第四話 時を止めた研究者】

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★ 「おっちゃんは、いつも無口な人でした。どこか思い詰めているようで、たぶん自分の死期を悟っていたのだと思います。 でも、研究協力のお願いをさせていただいたところ、二つ返事で承諾してくださいました。 週二回、おっちゃんは僕が訪れるとなにも言わずに腕を差し出します。僕はその腕に針を刺し、血をもらいました。診療で必要な採血と合わせて取りますから、毎回、50ccくらいはいただくのです。 結構な時間がかかるので、その間、僕はおっちゃんにいろいろな話を持ちかけました。趣味や仕事のことなどです。 さすがに食事がのどを通らない人に食べ物のことを尋ねるのは酷だと思い、やめましたが。 おっちゃんは、なんでも深くは話したがらない人でした。けれども唯一、顔をほころばせたのはおっちゃん自身の家族の話でした。 僕はおっちゃんから血をもらう間、話の聞き役となりました。おっちゃんは家族のことを誇りに思っていて、誰かに話したかったようなのです。 きっと、僕は初めての聞き役だったのだと思いました。 ある日、おっちゃんは言いました。妻が栄養剤を病院に持ってきたのだと。皆様もコマーシャルでご存じの『アルゲニーノV』です。 おっちゃんの奥さんの言い分は、「せっかく森山先生に手術してもらって飲み物を摂れるようになったんだから、しっかり栄養をつけましょうよ」ということらしいです。 おっちゃんは困惑して言いました。少しでも体にいいものを、という妻の気遣いは嬉しいのだけれど、どうしたものかと。森山先生に尋ねると、余計なものはやめておきなさいと一蹴されそうだからという理由で躊躇していました。 ですから、おっちゃんは担当医ではない僕にそれを飲んでも良いかと許可を求めたのです。 僕は森山に黙って、栄養剤を飲むことを許可しました。そして、このことは森山には隠しておこうと思いました」 診療録には家族が持ち込んだ飲み物の種類や摂取状況まで記録されているわけではない。石渡は慌てて手元の分厚い資料を確認するが、看護記録に「家族が持ってきた飲み物を口にしていた」とちらと書かれていただけだった。
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