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金井は淡々と続ける。
「じつは一本のアルゲニーノVには、5 mgのビタミンB1が含まれているのです。おっちゃんはこの飲み物を、長く生きてほしいという奥さんの願いなのだと受け取ったようで、律儀に毎日ちゃんと飲んでいました。森山先生に手術してもらったから、これを飲めるようになったのだと、細長い小瓶を眺めながら、少しだけ嬉しそうに。
ですから最期までおっちゃんのことを大切に思っていた奥さんも、気づかないうちに医療の手助けをしていたのです。
そして、僕は奥さんの想いを反故にしてまで、勧めた飲み物を医療用の薬剤に切り替える提案なんてできませんでした。
つまり、森山の医療過誤に気づきながら、あえて報告せず黙認していたのです」
金井は傍聴席に体を向けて深々と頭を下げる。森山は金井の謙虚すぎる態度に、空いた口がふさがらなかった。
「ご家族の方には、隠していてほんとうにすみませんでした」
しばらくの沈黙があった。塗り固められたような重い空気に、誰もが身じろぎひとつできなかった。
裁判長は、膠着した空気を振り払うように西成に意見を求める。
「西成弁護士、この証言については事前に打ち合わせをされていたと思うのですが、言い足すことはございますか」
西成はそっと腰を上げ、厳かに言葉を紡いでゆく。
「じつは今、金井先生が口にしなかったことがひとつありますので、私が補足いたします。
彼は原告を気遣い言わなかったのだと思いますが、ここは法廷ですので真実を明かしたいと思います。
金井先生の話では、患者さんは実のお兄さんに心底会いたがっていたようです。余命が残されていないことを直接、自分自身で打ち明けたかったそうですが、仕事が忙しいの一点張りで顔を見る機会がないのだと残念がっていました。
昔の思い出話がしたかったそうですが、そうしているうちに病状が悪化してしまったのです」
それは事前に金井が西成に伝えたことだが、金井はその言葉をうつむいたまま聞いていた。
「金井先生がそう言及しなかったのは、訴えた相手とはいえ遺族となった兄への、ささやかな気遣いだったのではないでしょうか」
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