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個室の病室に足を踏み入れると、顔隠しをかけられベッドに横たわる患者の姿があった。
「まだ死後の処理はされていないんですね」
病室には「エンジェルセット」が準備されていた。「エンジェルセット」とは死後処置の際に用いる道具一式のことである。天使に連れられて天国に、という願いが込められてそう名付けられている。
「医療事故に遭ったご遺体をどのように扱えば良いのかわからなくて……。異状死体として警察に連絡しなくちゃいけないかとも思ったので院長と事務長に連絡したんです。でも今日は院長が不在だったもので――」
「そのため事務長が慌てて私のもとに来たわけですね」
現状に手を加えることがはばかられたようで、まだ挿管された状態のままとなっていた。いたたまれない姿に前田は目を覆いたくなった。
トラブルの原因となった人工呼吸器は電源が切られ、病室に置かれたままになっている。外れたとされる問題のスパイラルチューブはひとまとめにして袋に詰めてあった。
「師長さん、これが外れたチューブですよね。チューブ自体に損傷はありませんでしたか」
「はい、確認しましたけれど、問題はなかったです。どうして外れたのか、正直よくわからないんです」
西成は袋の中を透かして見るが、やはり損傷はないようだった。
前田は病室を見回し、ふと、テーブルの上に丸めて置かれたオフホワイトの生地に気づいた。医療器具とは関係がなさそうなものだったので、そっとつまみ上げてみる。どうやら子供用のカーディガンのようだ。
「師長さん、これは誰のですか」
「ああ、このサイズですとお孫さんのでしょうね。置き忘れじゃないかしら」
尋ねると師長はそう答えた。病室はカーディガンを羽織りたくなるくらいに肌寒い。半袖の白衣を着ている師長は露出した腕をさすっている。
「寒いのに脱いでいたんですかね。前田さんはどう思います?」
「子供は風の子っていいますから。わたしは冷え性ですから羽織ると思いますけど」
西成は、ああ、そうですかと言いながら、そのカーディガンを凝視する。銀縁眼鏡に指をかけ、じりじりと目を近づけてゆく。
「でも、これはなんでしょうね。この汚れです」
「汚れ、ですか?」
カーディガンをよく見ると、生地の表面には灰色をした縞々の汚れがうっすらとついている。西成はそれが気になったようだ。
前田はあたりを見回したが、壁にもたれかかったとしても、そのような跡がつく場所は見当たらない。
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