【第五話 ふたりの過去】

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前田の口からは、烈火のごとき怨念が吐き出された。 「西成先生、あなたのせいでわたしの母がどれだけ苦労したか、わかっているんですかっ!」 前田の怒りは頂点に達していた。八年間、ずっと溜め込んできた怒りのすべてが爆発したのだ。前田の胸中には、西成に対する意趣遺恨が溢れていた。声を荒らげて西成に盾突く。 「の兄は、あなたの仕掛けたのせいで負けたんです。あなたがいなければ、判例に従ってこの裁判は幕を下ろしたはずだったんです!」 前田は西成に刃のような視線を突きつける。まるで親の(かたき)を目にしたかのように。 「わたしの母は、受け取れるはずの賠償金を受け取れず、苦労して兄とわたしを育ててきたんです。自分の楽しみをすべて捨てて、休まず仕事ばかりしていました。わたしはその復讐をするために、あなたのいるこの東山総合病院に就職したんです!」 前田は西成の秘書となった時、すべてが思い通りに運んでいると確信していたのだ。 しかし、衝撃の真実を打ち明けた前田に対してさえ、西成は冷静な表情を崩すことがなかった。 いや、まるでそうなることをかのように、不自然なまでに粛然としているのだ。 西成はおもむろに腕時計を確認し、そっと口を開く。 「前田さん、お気持ちはわかりますが、お座りになって五分お待ちください」 この場の雰囲気にそぐわないほど落ち着いた口調だったことに、前田は身の毛がよだった。唇を噛み締め、これ以上、西成の思うように操られてはならないと警戒心を剥き出しにする。西成の行動の裏には、自分の知らないなにかがあると感じ取ったからだ。 ――この冷静な対応は、わたしが激怒すると予測していたかのようだ。 荒ぶる胸中をなだめながら、西成の意図を汲み取ろうとする。 ――だとすると、論文を見せたのは、わたしを怒らせるための意図があったのかもしれない。 その時前田は、ある仮説にたどり着いた。いや、たどり着いてしまった。 ――もしそうならば、西成先生はわたしの素性を知っていたのではないだろうか。 そのひらめきが的を射ているのなら、西成は前田を裁判で負かした相手の身内と知った上で、あえて秘書に採用したということになるのだ。 重く沈んだ空気が診療部門特別相談室を覆い尽くす。 前田は狼狽の色を浮かべ、うつむいて時が訪れるのを待つしかなかった。 一秒ごとに刻まれる壁掛け時計の針の音が、この部屋の唯一の音となっていた。 悠久にも感じられる時が流れ去って、ようやっと診療部門特別相談室にノックの音が響き渡る。
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