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「おや、誰かがきたようですね」
西成はしらじらしくも予定外のことが起きたかのように振る舞い、扉に歩み寄りノブに手をかける。
前田は開いた扉の先に佇む人物の姿を見た瞬間、驚いてまぶたを大きく開いた。
前田の瞳に映ったのは、西成の回想の中にいた登場人物のひとりである、亡くなった患者さんの妻――前田の母親である。
「お母さん――?」
「ご無沙汰しております、西成先生」
前田の母は西成に向かって深々と腰を折る。
「お気遣いなさらずに、どうぞお入りください」
「失礼いたします」
西成は手を差し出し、母をソファーに案内する。前田は予想しなかった来訪者の登場に、さらに混乱し理解が追いつかなくなった。
――なんで、お母さんが西成先生に会いに来ているの?
ただ、不自然なほどに息遣いの揃った挨拶に、ふたりは面識があるのだろうと容易に察しがついた。
絶句する前田に対して、母はにこやかな笑みを見せてこう言う。
「今日は、あなたに話さなければいけないことがあるの。西成先生にはほんとうにお世話になったのよ」
けれども前田は腑に落ちない。世話になったどころか、憎むべき相手に違いないのだから。ぶっきらぼうに西成を指で差して声をあげる。
「お母さん、この人のせいでわたしたちは裁判に負けたのよ。あの時、勝ってさえいれば、お母さんはそんなに苦労しなくても――」
「ちゃんと聞きなさい!」
母は前田を撃ち抜くような厳しい表情で一喝した。
「あなたはなにも知らなすぎるの。しっかりした社会人になるためにも、ちゃんと聞いてもらわないと困るのよ」
そう言う母の眼差しは、すべてを告げる決心を物語っていた。
「隣に座りなさい」
母は自分の隣のソファーを指さす。前田はわけがわからず、いわれたとおりにおずおずとソファーに腰を据えた。
「わたしたち家族が救われたのは、西成先生のおかげなのよ」
ローテーブルを挟んで西成と対面したが、前田は西成と向き合うことができないでいた。西成は前田の怒りのすべてを飲み込んでしまうような、寛容な眼差しで前田を見つめている。
母はおもむろに手土産の菓子を西成に差し出す。西成はにこやかに和菓子の包みを受け取った。ふたりの間には、落ち着きのある空気が流れていた。
「美穂……お父さんが亡くなった原因の胸膜中皮腫という病気はね、アスベストによって引き起こされるものなの」
「アスベスト……?」
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