【第五話 ふたりの過去】

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「おや、誰かがきたようですね」 西成はしらじらしくも予定外のことが起きたかのように振る舞い、扉に歩み寄りノブに手をかける。 前田は開いた扉の先に佇む人物の姿を見た瞬間、驚いてまぶたを大きく開いた。 前田の瞳に映ったのは、西成の回想の中にいた登場人物のひとりである、亡くなった患者さんの妻――前田の母親である。 「お母さん――?」 「ご無沙汰しております、西成先生」 前田の母は西成に向かって深々と腰を折る。 「お気遣いなさらずに、どうぞお入りください」 「失礼いたします」 西成は手を差し出し、母をソファーに案内する。前田は予想しなかった来訪者の登場に、さらに混乱し理解が追いつかなくなった。 ――なんで、お母さんが西成先生に会いに来ているの? ただ、不自然なほどに息遣いの揃った挨拶に、ふたりは面識があるのだろうと容易に察しがついた。 絶句する前田に対して、母はにこやかな笑みを見せてこう言う。 「今日は、あなたに話さなければいけないことがあるの。西成先生にはほんとうにお世話になったのよ」 けれども前田は腑に落ちない。世話になったどころか、憎むべき相手に違いないのだから。ぶっきらぼうに西成を指で差して声をあげる。 「お母さん、この人のせいでわたしたちは裁判に負けたのよ。あの時、勝ってさえいれば、お母さんはそんなに苦労しなくても――」 「ちゃんと聞きなさい!」 母は前田を撃ち抜くような厳しい表情で一喝した。 「あなたはなにも知らなすぎるの。しっかりした社会人になるためにも、ちゃんと聞いてもらわないと困るのよ」 そう言う母の眼差しは、すべてを告げる決心を物語っていた。 「隣に座りなさい」 母は自分の隣のソファーを指さす。前田はわけがわからず、いわれたとおりにおずおずとソファーに腰を据えた。 「わたしたち家族が救われたのは、西成先生のおかげなのよ」 ローテーブルを挟んで西成と対面したが、前田は西成と向き合うことができないでいた。西成は前田の怒りのすべてを飲み込んでしまうような、寛容な眼差しで前田を見つめている。 母はおもむろに手土産の菓子を西成に差し出す。西成はにこやかに和菓子の包みを受け取った。ふたりの間には、落ち着きのある空気が流れていた。 「美穂……お父さんが亡くなった原因の胸膜中皮腫という病気はね、アスベストによって引き起こされるものなの」 「アスベスト……?」
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