【第五話 ふたりの過去】

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アスベストは、かつて建築物の壁材として用いられ、その耐熱性や扱いやすさから、「奇跡の鉱物」と呼ばれていたものだ。しかし、さまざまな肺病の原因となることがわかり、建築に携わっていた作業者の健康被害が問題となった。 そのため、特定の肺病に罹患した患者がアスベストを扱う建築業に従事していたことを証明できれば、救済措置の申請をおこなうことができるのだ。 「裁判で負けて、わたしは路頭に迷っていたわ。お父さんの兄は、勝訴したら折半するから任せておけと意気込んでいたけれど、敗訴が確定してからというもの、二度と連絡してこなかった。お父さんの命と引き換えの賠償金が目当てだったって、よく理解できたわ」 母は当時の心情を思い出し、瞳を潤ませる。 「頼れる人がいなくなったわたしに、西成先生から連絡がきたの。わたしは電話で相手が誰かわかるやいなや拒否したわ。でも、手紙まで書いて送ってくださって……結局は根負けして手紙を開封したの」 前田が西成に目を向けると、西成は顔色ひとつ変えることなく静聴している。母は隠してきた真実を解いて伝える。 「西成先生の手紙の内容は、訴訟の原告側であるわたしのことを気遣うもので、意外に思えて驚いたわ。それに、西成先生は救済制度について詳しく説明してくださり、その対象になるかもしれないと提案してくれたの」 母から聞いたものの、にわかには信じられなかった。 ――西成先生が、父の亡くなった後の、母の支えになっていたなんて! 「だからわたしは藁にもすがる思いで連絡をしたの。そうしたら、この『診療部門特別相談室』に案内されたわ。 西成先生はこの制度について懇切丁寧に教えてくださって、申請も手伝ってくださったの。石渡先生は、そんなことはひとことも教えて下さらなかったのにね」 母は前田を諭すように続ける。 「結局は救済制度の補償のおかげで、あなたを大学に進学させることができたの。 あなたが大学に進学したいと言っていたから、どうしても行かせてあげたかった。だから西成先生は神様のように見えたわ」 あっけにとられ、声が震える。 「ど……どうして……教えてくれなかったのよ……」 「それはね、お父さんの死後、あなたが弁護士になりたいと言い出したからなのよ。わたしはすぐに気づいたわ。美穂は西成先生に報復したいと思っているのだと」 学生時代、勉強をおろそかにしがちな娘が、父の死をきっかけに真剣に取り組むようになった。その変化に、母は娘の心中を察していたのだ。
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