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だから前田が弁護士を目指さず、東山総合病院の就職試験を受けると言い出した時、母は前田が西成の居場所に気づいたのだとすぐに察した。そして西成に連絡を取った。
母は柔和な笑顔で続ける。
「もちろん、わたしは西成先生への誤解を解くため、あなたにすべてを話そうと思ったのよ。でも、西成先生はこんなふうにわたしを諭したの。
『もしも美穂さんに弁護士を目指す志があるのでしたら、けっして伝えるべきではないでしょう。なぜなら司法試験の合格率はたった二割台でしかありません。善かれ悪かれ、強い動機付けがなければ合格できるだけの実力をつけることができませんから』――って」
「じゃ……じゃあ……」
前田は西成を親の敵として憎み、岐路を己の意思で選んでいたはずだった。それなのに、すべてが西成の手のひらの上で踊らされていたことだと知り愕然とした。おずおずと西成に目を向けると、憎らしいほど涼やかな表情をしていた。
――今までだってそうだった。西成先生は、呼吸をするくらい軽やかに、医療従事者を泥沼の危機から救い上げていた。
――裁判で争う相手の身内に手を差し伸べるなんて考えられないことだけど、西成先生ならばそうしてもおかしくない。
西成が論文を見せて過去の裁判について語り、前田を煽ったのはすべて、真実を語るための布石だったことにようやっと気づいた。
前田は床に頭を叩きつけられたような衝撃に全身を震わせる。西成仁という男は、いともたやすく人間の心理を手玉に取る、悪魔じみた狡猾な弁護士であった。
――ううっ、わたしは……わたしは、今までなんのためにッ!
思い起こせば採用試験の際、西成は審査員のひとりとして前田と向き合った。それが憎むべき相手との再会であった。前田は西成に対して反抗的な視線を突き刺してみせたが、西成は不思議と寛容な笑みを浮かべていた。真実を知り得た今ではその笑みの意味が明確に理解できた。
母は西成と穏やかな世間話を交わした後、面会を終えることとなった。
「西成先生、つたない娘ですが、おかげさまで努力することを覚えたようです。どうか、今後もよろしくお願い申し上げます」
「はい、私のほうこそ、よろしくお願いします。前田さんにはいつも助けられていますから」
それからというもの、西成がみずから口を開くことはなかった。むしろ前田からの言葉を待っているような雰囲気があった。
前田は察し、長い沈黙を経てぽつりと口を開く。
「……西成先生は、わたしが報復を企ててあなたの下に就いたのを知っていたんですね」
西成はとぼけたような口調で答える。
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