【第五話 ふたりの過去】

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「そうですよ、私も人間ですから。でも、なにをするにもひとりでは限界があります。運良く同僚や患者さんに助けられたこともありましたしね。それに――ゴホ、ゴホッ」 西成は話し途中に、急にむせこんだ。すかさずポケットからハンカチを取り出し、口を押さえる。 数回、咳込んだ後にハンカチをちらと見て、隠すように握りしめ、そそくさとスーツの内ポケットにしまい込んだ。 前田はその仕草にはっとなったが、西成は素知らぬ顔で続ける。 「世の中の医療は年々、複雑化しています。これから先、判例にはない、さまざまな問題が出てくることでしょう。 けれども、一般的な事故や訴訟を扱う弁護士には、医療にまつわる裁判を解決するだけの手段も糸口もないのです。 やはり医療現場の声を知る者こそが、人を救う真の解決に導くことができるのです。私はあなたにそういう人間になってほしい。そう、心から願っているのです」 銀縁眼鏡の奥に光る眼差しには、一縷(いちる)の曇りもなかった。 「この一年、あなたの活躍は素晴らしいものでした。ですから私はあなたならなれると思っているのです。 人間を救うための、本物の『医療弁護士』という存在に。 なにせ、私にはそうそう時間がないものですから――」 そう言って西成は、ふたたび軽い咳払いをした。西成の不穏な様子に前田は狼狽する。 「西成先生、先生はまさか――」 けれども西成は普段と変わらない笑顔を返す。 「ははっ、私は大丈夫ですよ。ただ、あなたに弁護士の資格を取ってほしいと思っているだけです」 その言葉に前田は思う。西成はどんな難問が目前に立ちはだかったとしても、けっして屈することはなかったことを。 ――希望を捨てなければ、わたしにだって! 前田は決意を固めて西成に向き合い、こう言い切った。 「西成先生、わたしはあなたが卑怯な人間のはずだと決めつけていました。けれども、誰もが掴めないほどに先を見透かしていることが、妬ましくてなりません。 ですから、わたしはあなたを妬まなくてもいいように、自分のスタイルを見つけて、一人前の弁護士になってみせます。 これからもわたしのことを、どうか見守っていてください!」 すると西成はいつも通りの穏やかな、けれど重厚な質量の声で返事をした。 「人間という生き物の本質は、深海よりも深いものです。あなたが思うよりも、そして私が思うよりも、ずっと、ずっと――」
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