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離れの様子が脳裏に蘇る。黴びて黒ずんだ壁、梁の腐った天井、鬱屈が凝ったような湿気た空気。羽目板の隙間から差す光と、ネイの励ましの声。
髪を握る手のひらに爪が食いこんで、鈍い痛みが走る。と、上から拳を包まれてリゼルははっと顔を上げた。
拳をほどくようにグレンがそっと指を絡める。肌に触れる温もりが、凍りついたリゼルの過去を端から溶かしていくようだった。
「わかった。それ以上は言わなくていい」
「も、申し訳……」
「謝罪は必要ない。俺が不躾だった。……他に好きなものはないのか?」
指を絡めたまま、そっと訊ねられる。リゼルは唇を噛み、心の隅々まで目を配ってから、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「私は、魔法が好きで」
「ああ」
「色んなものを見るのも、好きです。知らないこと、見たことのない景色。行き交う人の流れだとか……」
未知と未踏。それこそがリゼルの心を躍らせるスパイスだったが、今まではっきりと口にはできなかった。これが罪ある性質だと思っていたから、マギナ家で蔑まれても、リゼルは冷遇に甘んじていた。そうされて当然の罪深い娘なのだと信じていた。
けれど今、グレンに対して言葉にできたのは。
(旦那様は、私の家族とは違う。……きっと、不気味がったりしない)
絡む指の力強さが、そう伝えてくれるからだ。
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