第一巻 運命の婚礼 第三章 アリオス宮の暗躍 1

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 それはとても七歳の少年が、悪戯で描いた絵とは思えぬほど素晴らしかったのである。  兄がひと月以上かけて仕上げた絵を、彼は半日もせずに模写していた。  まったく同じ風景を同じ構図で真似てはいるものの、その筆致や色使いは元の絵を遥に凌ぎ比べものにならないほど完成されていた。  完成と言うよりも、その絵には紛れもない独自性があった。  自然の息吹が迸り木々は風にそよぎ、空はどこまでも高く広がっている。  いままで見たこともない絵の具の使い方をしており、荒々しい中に繊細さが残る初めて目にする画法だった。  ソネットの才能を確信した父は、それ以降彼に英才教育を施す。  当のソネットは父から言われたとおりに絵を描くのを嫌い、自分勝手に思うがまま次々とキャンバスを量産して行く。  一日で三枚の絵を描いたこともあった。  そのどれもがそれまでの父親が描いていた手法とはかけ離れており、完全に自分独自の技法と言って良かった。  息子が十六歳になった頃には父親は自らの矜持を捨て、天才である息子に脱帽していた。  すでに楼桑国内に彼を指導できる人材はいないことを認め、大陸でも屈指の芸術の都へ学ばせることにする。  そうして若き頃に『シルバラード』(ヴァビロン帝国の帝都)や『キャストラ』(ラインデュール正王国の王都)と言った、芸術で名高い都市で学び、いつしか楼桑国一の絵師と呼ばれるまでになった。  しかし彼は、一見するとまったく絵師には見えない。  奇抜な意匠の着衣を身につけ、その言動は巷で大道芸をする道化師か、軽口では引けを取らぬ吟遊詩人のようであった。  口の巧いソネットは手当たり次第に女を口説き、彼の周りには常に複数の女性の姿が在った。  それはまだ初心そうな町娘から、妖艶な雰囲気をしたどう見ても素人には見えない危険な女。  果てはどこぞの貴族の令嬢から、暇を持て余した奥方と言った高貴な女性までもが含まれている。  それ故に諍いや騒動は日常茶飯事で、彼はほぼ毎日のように争いごとの渦中にいた。  しかし不思議と大事にまでは発展せず、相手が裏稼業の危険な男だろうが、貴族の意を受けたいっぱしの武人であろうが、いつの間にか見事に解決してしまっている。  そんな表面的なひょうきんさや女癖の悪さとは裏腹に、彼の心は主に対する忠誠心と愛情で溢れていた。  王とその家族の個人的な秘密を知る立場にありながら、彼の口からそれが外へ漏れたためしは一度もない。  王はそんな彼を、大層寵愛した。  特にロザリーは、まるで叔父と姪か親しい従兄妹のように彼に懐いている。  当初は絵師として雇われたのだが、そんな性格も相まって、いまでは王とその一家にとって欠かすことの出来ない、気を許せる友人となっている。  そんな彼に王はひとつだけ注文をつけた、女癖の悪さだけは控えるようにと。  ロルカの口からそれを直接聞かされて以来、あれほど好きだった女遊びを彼は止めてしまう。  どうやら王の勧めにより、王宮務めの女官のひとりと近々所帯を持つという話しもある。  その上彼は芸術家に似合わず武芸にも長けており、文官のために荒事は苦手であるアルバートに代わり、ロザリー姫の護衛役も兼ねるようになっていた。  噂に依れば小うるさく飛び交う蠅を、レイピア(細剣)の切っ先で串刺しに出来るという。  その腕は「キャストラ」留学中に親しくなった、旅の剣客から手解きを受けたものだと言われている。  不確かな話しだが、十人以上の武装強盗団から商家を守りすべての相手を殺さず捕らえたという。  皆がみな足首の腱をレイピアに刺し貫かれ、歩けなくなっていたというのだ。  顔や胴、腕などであれば腕の立つ剣士であればいかようにも出来ようが、足首となると話しは違う。  よほどの達人でも至難の業であろう、この話しが真実であるならば達人以上の〝天位〟の持ち主に近いことになる。  どういう経緯で絵描きが剣客と知り合ったのかは謎だが、このソネットはなにをやらせても器用で、剣の道に進めばそれなりに極めたのではないかと思われる。  世に言う〝天才の持ち主〟である。  その時の剣客は、後に世界で五人しかいない〝太天位〟を受けた「剣侠シャレーザン」と呼ばれる、大陸屈指の大剣豪になったという。  されどソネットはその腕を人前にひけらかすことはなく、真偽のほどは謎であった。  彼は常々公言している。 〝わたしは絵筆よりも重い物を持つのは嫌いです、それ以外に持つのはフォークとナイフ、そうして女性の肢体(からだ)くらいでしょうか〟  なんともふざけた台詞である。  しかし彼が絵師にも拘わらず、常に腰に細剣を吊していることは事実であった。
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