不 審

1/1
前へ
/12ページ
次へ

不 審

 遺体の検分をすばやくすませた武蔵は、はたと眉を寄せた。  ……小野寺弥右衛門の額は真っ二つに割られていた。かつて武蔵が佐々木小次郎に試合を挑んだとき、相手を(たお)した傷に似ていた。けれどそれは似て非なるものであって、小野寺を倒したのは通常の刀剣ではないことを武蔵は瞬時に見抜いた。(のみ)のごとき刃幅の広い、厚みのある武器であったろう。そのような刀剣を(つか)う技にも人物にも武蔵は出会ったことはない。  さらにかれが不審をおぼえたのは、浪人木村の体には刃傷はなにひとつなく、(くび)の付け根とこめかみに紅い斑点のような腫れがあったことである。 (毒針か……いや、さにあらず、これは……)  ……手刀ではないかと武蔵は疑った。あるいは気絶させた上で、争った形跡を残すためになんらかの処置を(ほどこ)したのであろうか。  その見極めがつかないでいた。  しかも、相討ちのようにみせながら、遺体を半里も離れて放っておくのはどういうことなのか……。 (怨恨による刺殺が目的ではないようだ。屍体にするのは、誰でもよかったのか、それともこのふたりでなければならなぬ事情というものがあるのか……)  当然のことながら傷痕の検分だけではそこまでは判らない。 (だが判らないということが、わかった) と、武蔵はおもった。背後でいかなる企みが蠢動(しゅんどう)しているのか、いないのか。  それが読めない。武蔵は少なからず苛立っていた。 (あるいは、柳生兵庫助という御仁(ごじん)は、その(いん)なる動きを察知して、わしをこの地に(とど)めようとしているようにもみえるのだが……)  考えれば考えるほど、武蔵の思念は昏迷の洞穴へと向かってしまう。  (いずれにせよ、いままさに、この尾張の地で、なにかが起こりつつある……)  その予感が、武蔵により慎重に行動せねばならぬと改めて自戒の念を生じさせた。  武蔵は柳生兵庫助のことは、柳生新陰流を遣う柳生一門であること以外は、ほとんど知らない。  武蔵はいま三十四歳。兵庫助は自分より五歳ほど上らしいことを聴き知っていただけである。  柳生……といえば、将軍の剣術指南役としてようやくその名が喧伝(けんでん)されつつあった江戸の柳生宗矩(むねのり)の存在を想起するだけであった。  ちなみに、宗矩は兵庫助の叔父にあたる。  ……この頃の武芸者は、剣術という用語はほとんど使わない。剣法、あるいは、兵法(へいほう)師範……と自らを鼓舞する者が大多数で、兵法家(ひょうほうか)ともいった。武蔵自身がこれまでずっと兵法家を標榜(ひょうぼう)してきたのだ。  そういう気概の持ち主の一人である武蔵が、ここにきて突然降って湧いた迷いの渦の中に放り込まれてしまったのは、初対面のときにまだ十代半ばだろうと踏んでいた野十郎と立ち合う場面をふいに想像してしまい、そこから想像で導き出された互いの一連の刀の動きを思い描き、ついにはおのれが(たお)れるその姿を頭裡のなかに垣間見てしまったからであった。  ……この時代、武蔵はまだ二刀流に重きを置いてはいない。  いわゆる二天一流の完成は、これからまだ四半世紀(のち)のことになる……。 「柳生の殿さまとの試合をご所望なされておられるのでございまするのか?」  食餌を終えて茶をすすっていたかれに、横合いから膳を引き上げにきた多惠(たえ)に口をはさまれ、ひとまず思念を閉ざした武蔵は、 「望まれれば応じるにやぶさかではござらぬが、の……」 と、短く答えた。  けれど、柳生兵庫助との試合よりも、いまの武蔵にとってはむしろあの少年……野十郎の存在のほうが妙に重く()しかかってくるのだ。しかも目の前のにすら勝てるか勝てないか判らないほどの嫉妬すら覚えている……。いまは、柳生兵庫助との剣の試合などにかまっていられる心境でもなかった。   「……野十郎は鞍馬で剣の修行に励まれたとか……?」  少年の背景をもっと詳しく知りたいとおもい、世間話の口調で武蔵はかまをかけた。 「くらまぁ……? さあ、わたくしは一向に存じませぬ。たしか……幼少の頃、岡山あたりで暮らしていたことがあるとは聴いたことがございますが……」 「ほほう……備前(びぜん)で、の……」 「あの亡くなられた木村様というご浪人さまは、備中(びっちゅう)にゆかりがあったそうでございますが、宮本様のご家来だったのでしょうか?」 「ん……? いや家来ではない。また家来を養える身分ではない。ま、かつての弟子の一人でござった。巌流(がんりゅう)の佐々木氏と仕合ったおりに、の。まもなくわけあって破門致したが……」 「さようでございましたか。けれど、元ご門人の方の消息を追われてはるばる尾張へと……」  そこで口を閉ざした多惠は、おそらく喋り過ぎていることに気づいたのであったろう、幾分頬を赤らめて語尾を濁した。  たしかに武蔵の尾張訪問が誰かの差し金ではないのかと、兵庫助周辺では疑っている。ことばの弾みとはいえ、そのことを口の()にのぼせてしまったおのれの未熟さを多惠は恥じているようにもみえる。  耳に入らなかった(てい)で武蔵は別なことを多惠にたずねた。 「……つかぬことをお聴きするが、小野寺弥右衛門という御仁は、御譜代(ごふだい)のお方か?」    すると、多恵(たえ)は急にケラケラと笑い出し、ハッと慌てて両手で口元を覆った。 「や……」と、武蔵もその可笑(おか)しみに気づいた。  譜代(ふだい)もなにも、この尾張藩自体、立藩(りっぱん)されてまだ十年そこそこの歴史しかないのだ。  この年、元和三年(1617年)、初代藩主の徳川義直(よしなお)(家康の九男)は、ようやく十八歳になる。家康の直命で八歳で初代尾張藩主になったのである。城(名古屋城)も、公儀(こうぎ)普請(ぶしん)といって、築城当時、豊臣恩顧の大名が蓄えた財貨を減らす目的と徳川への忠誠度を見極めるため、あえてかれらに造らせたのだった。 「あ、そう言えば、小野寺様は備後(びんご)のお()まれだと聴いたことがございました。尾張徳川家にご仕官なされて五年ほどであったかと存じます」  なかなかに多恵(たえ)はそれなりに世故(せこ)()けた物識(ものし)りであるようで、武蔵にとっては想定していた以上の得難い情報が得られた。死んだ木村と小野寺、そして野十郎の三人が、備前、備中、備後という地を手がかりにしてつながったからである……。  
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加