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初 動
宮本武蔵来たる……!の報を受けた、柳生兵庫助は、小首を傾げたまま、野十郎を武蔵との連絡役にせよと長谷川多聞に告げた。
「は……? あのやさぐれめを……?」
兵庫助の真意が掴めず、多聞は唖然として瞑目した。
「いえ拙者も最初はそのように考えたのです。少年ならば、武蔵の警戒心も解かれようと……。けれどあのやさぐれめ、こちらが呼びにやらせたのに、どこをほっつき歩いているのかいまだに姿を見せずじまいでして……」
「いや、わしの用事をこなしておったのだ。いまは庵に戻っているはずだ。それに、藩士であるおまえは、事件を外堀から眺めるに越したことはあるまい。おまえの思案のとおり、野十郎ならば宮本氏もさほど警戒することはあるまいよ」
「さようでございますか……にしても、あいつは礼儀もわきまえず、まだ十六、七の身元不明のやさぐれもん。そんなやつを武蔵のそばに置くのはやはり、いささか……」
多聞はそう抗弁した。なにも剣の師の判断に抗っているのではない。むしろ、宮本武蔵が腹を立てだすのを案じていたのだ。
やさぐれ……とは、宿無し、姓無し、身内無しの三無の流浪人のことを指す。主無し、嫁無し、家無しの三無のこともある。どういうわけか兵庫助は当の少年をことのほか気に入って、柳生館や数カ所に設けていた見張り小屋に勝手気ままに居候させていたのだ。しかもあろうことか、
『必要ならば、柳生の姓を名乗るがよい』
とまで野十郎に申し伝えていたほどである。それが長谷川多聞には気に喰わないのだ。
「……こたびの奇怪な事件、一方の死人たる浪人、木村なにがしが、どうやら武蔵の元門人だそうにございます。その木村を追っての旅の途上……と本人は語っておりましたが、果たしてそれが真実かどうかは、死人に口無しとはこのこと……」
「だからじゃよ、こちらもしばし様子見するに越したことはない。それにの、野十郎のほかに、多惠を賄い婦として宮本氏の傍らに置くことにしようぞ」
「な、なるほど、それは妙案にございます。多惠様ならば、武蔵の真意を探るには適役でございます」
多聞はそう応え、その夕刻、ざっと事のあらましを野十郎に告げた。
「あ、そう」
と、一言を発すると、野十郎は武蔵のために兵庫助が用意してやった夢柊庵をめざして駆け出した。
廃寺の跡地にかつて兵庫助が手を加えた掘っ立て小屋で、厩、井戸、厠がそばにあって、雨露をしのぐには十分である。まだ、参勤交代制度もないこの時代、市中にも来客用の宿はないのだ。行商人たちはおおむねこのような粗末な小屋や寺社の境内で寝泊まりすることが多かった。つまるところ、宮本武蔵もそのような扱いを受けたことになろう。たまに野十郎もその夢柊庵に棲んでいる。
そんな粗末なところを武蔵にあてがうのは、兵庫助の嫌がらせなのか、それとも相手の心胆の強弱のほどを試す処置であったかは長谷川多聞は知らなかった。
……野十郎はいささかも動じることなく、武蔵の前でわざとらしく深々と頭を垂れてみせた。
「野十郎……という。おれが屍体検分場まで、案内することになったぞ……」
ぞんざいに野十郎は言い放った。なにも喧嘩を売っているのではなく、それがこの少年の地というものであったろう。
武蔵はいささかも表情を変じることなく、
「それはご苦労に存ずる」
と、やや上ずった声で返した。元門人の屍体の傷をわが目で確かめたいと願い出ていたからである。
そのままの姿勢で先に武蔵が立ち上がるのを待っていた野十郎は、自分に注がれる武蔵の透明すぎる視線にややとまどい、それでも黙したまま逸らそうとはしない。互いの吐く息も停まったかのような静寂。そのなかで、武蔵の目はなにをとらえていたのであろうか。
それにしても、六尺(約180cm)はあろうかという武蔵の尋常でない体格に接しても一向に畏れをみせないこの少年に、武蔵はことのほか興を唆られたようでもあった。
「新陰流の御門人であろうか、の」
意外にも武蔵はすこぶる丁寧な物腰で野十郎にたずねた。
「……いや、ちがう。居候させてもらっているので、たまにこうして殿さんの雑用事をやっているだけだ」
殿さん……とは、尾張藩公のことでなく、柳生兵庫助のことであったろう。このひとことで、少年が兵庫助の私用人らしいと武蔵にも伝わった。
それでも武蔵はいささかも蔑むことなく、同じ口調でひとりごちるように続けた。
「……その若さで、かなりの修行を積まれてこられたようだ、の。新陰流とは、それほどのものなのでござろうか」
「いや、殿さんには剣は教わってはいない」
「ほ……新陰流を修んでおらぬと申されたか……ならば、どこで剣を学ばれた?」
「まだ言の葉もわからぬ幼き頃、鞍馬にて……」
「おおっ」
と、かつて京に棲んでいたことがある武蔵は奇声を発することで、胸にざわつきはじめた波をぎゅっと抑えようとした。
……鞍馬山は、いわば瞑想神山の一であり、古来、さまざまな伝説を生んできた地でもあった。ちなみに、鞍馬寺は毘沙門天が祀られた寺だが、その理由はかつての平安京の北に位置するからである。毘沙門天は仏教の四天王の一人で、東西南北四つの方角のうち、北方を守護する武神である。
また、若き頃のかの源義経が、鞍馬山で修行したことは有名だが、つまるところ、彼の地は、人の持つ資質や能力を変容させる聖地……ともいえた。
「鞍馬には……」
と、武蔵が言いかけたが、そのまま口を閉ざした。この世には人知では計りしれない出来事が起こることは、武蔵は本能的に感得しており、触れてはならない真理に立ち入ることを控えたのだ。
「……いや、なんでもない、失礼つかまつった。では、お手数をかけ申すが、まずは案内願いたい」
武蔵が一歩踏み出そうとしたとき、そこへ音もなく現れた女人をみて、ハッと左脚を退いた。抜刀する直前の体重の寄せ方である。
ところが、野十郎が発した一言で、武蔵の警戒が解かれた。
「多惠さま……!」
呼ばれた女人は町人姿でも侍女の装いでもない。作務衣を着ていた。野十郎と同様に、「殿さま……」と口に出した。
「……から、宮本様のお身の回りのお世話を致すようにと申しつかってござります。おそらく、しばらくはこの地にご逗留されるであられようからと……」
「ほ、さようか」
答えた武蔵の口調は、野十郎に対することば遣いとは打って変わって妙にぞんざいであった。
相手が女人だからそうなったのではない。
当初、武蔵が警戒したのは、内に秘め続けてきたある女人のことを想起してしまったからで、何者かの変装だとおもい瞬時に向敵の構えをとってしまったのだ。そうではないとわかったとき、自らを恥じ入るがごとく、短い返答になったことを、野十郎と多惠は気づいたろうか。
「……多惠さまは、大和国柳生の庄で代々柳生の家に仕える護衛士だ」
横から口を入れた野十郎のそのことばに救われた武蔵は、瞬時に気まずさを振り祓うことができたようであった。
「さようでござるか……いささかの気配をも感得させずに現れたそのお手並、さすがに、と言わざるをえない」
「いいえ、そのようなお戯れを……。宮本様の御前と、緊張が昂じましてございます。どうかおゆるしくださいませ」
動揺の色を見せず多惠は言った。
「ここは荒れ寺の一隅にあった小屋を改装しただけのものでございます。傍らに厩と厠、井戸もありますゆえ、ご不便はなかろうかとはおもいますが、わたしもやさぐれさまとともにお世話をさせていただくことになりましょうほどに、なにかとお言いつけくださいませ」
「やさぐれさま……?」
小首を傾げた武蔵に、野十郎は、
「おれのことだ」
と、小声を発した。どうやら本人は“やさぐれ”と他者から言われるのはあまり好きではないようである。
「……いや、かたじけのうござる。武者修行で野宿があたりまえであった頃に比べると、この庵は居心地がよさそうでこざる。おそらく、それがしが、柳生どのの御屋敷に逗留するとなれば、いささか世間の目がうるさかろうとのご配慮、重ねがさねお礼を申しあぐる」
「と、とんでもございませぬ。それに、このわたしめに対してそのようなご丁寧に過ぎる物言いは無用にございます」
「いいや、そうは参らぬ。これでも拙者は相手の器量を少なからず見抜け申す。野十郎どのも多惠どのも、年若なれども、並々ならぬ剣の腕前と察してござるゆえ、大人に対すると同様に接するのは、当然のことでござる」
武蔵はそう言い残して野十郎のあとを追って外に出た。そして、口にしたとおり、胸の内ではこうおもっていた。
(このふたりと仕合えば……どうやら、いまのわしには勝てぬやもしれぬな……)
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