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第1話 1日目①おっさんは女子高生(ゲロイン)と知り合う
星が降ってきそうな満天の星空、とはまさにこんな空のことを指すんだろう。仰向けになって見上げた夜空にそんな感想を抱く。
時間は夜の8時。日没からすでに1時間が経過し、西の水平線の残照もかなり弱くなっている。
半月よりもう少し膨らんだレモンのような月は西の空に傾いており、周囲に人工的な明かりが存在しない大海原のただ中で見上げた星空は今まで見た中で一番美しいかもしれない。
肉眼で見える星が多すぎて、幾多の輝きの中に星座を形成する目立つ星が埋もれ、かえって星座を見つけにくくなっているまである。
高高度を飛行する航空機の翼端灯の点滅、一瞬だけ光跡を残して消える流星、弱い光を維持したまま夜空をゆっくりと横切っていく人工衛星など、動くものもそれなりにあるので案外観ていて飽きない。
こんなにのんびりと夜空を見上げる機会はここ数年なかったな、と思う。
島影1つない大海原を小さな筏で漂流していてただ星を見上げることしかできない現状を鑑みると、自分という存在が大自然の中でいかに小さな存在であるか思い知らされ、相対的に自分の悩み事も些細なことに思えてくる。
不幸続きでついに天涯孤独になり、自己憐憫に陥り、自尊心を失い、生きる意欲を失い、さりとて自分で命を断つこともできずに今日まで惰性で生きてきた。
だからもし命の危機に瀕したら、俺はあっさりと生きることを諦めるだろうと思っていた。
なのに、実際に生命の危機に瀕した時、俺は生きるために行動してしまった。生き延びようと努力してしまった。自分がこれまで培ってきた生存のための技能を使ってしまった。だから絶体絶命の状況をくぐり抜けて、今もまだこうして生きている。
結局のところ、俺は生きたかったのだ。愛する者を失い、独りになり、生きる目標を失ってなお、俺は生きたかったらしい。自分が思っているよりずっと、俺は生への執着が強かったようだ。
「……また、死に損ねてしまったなぁ」
と苦笑混じりにつぶやく。
とはいえもうその事に後悔はない。それに、今の俺にはすぐには死ねない理由もできてしまった。ならば、せいぜい生き延びるために足掻いてみようじゃないか。
◻️◻️◻️時間はこの時より数時間ほど遡る◻️◻️◻️
バイクでの一人旅をしていた俺は、キャンプ道具一式を詰め込んだ大型のリュックと愛車のオフロードバイク YAMAHASerow250と共にカーフェリーに乗り込み、船の最下層甲板の自動車用スペースにバイクを置いて、客室のある上層甲板で時間を過ごしていた。
ちょうど盆の帰省シーズンと重なっていることもあり、キャビンには家族連れも含め、それなりに乗客が乗っている。
おおよそ4、5時間の船旅なので、本当は重たい荷物も下ろしておきたかったのだが、施錠できる車の車内とは違い、バイクには荷物を安全に保管できるスペースはないので、リュックは背負ったままだった。元々バイクのキャリアに固定してあるテントや寝袋なんかはそのままだが。
本土の港から出港してすでに2時間。時おり島影は見えるものの、どこまでも果てなく続くように見える太平洋を南西方向に船は航跡を引きながら進んでいる。
本日、天気晴朗なれども波高し。
先週の台風の影響が残っているようで上空にポツポツと浮かぶ雲の流れは速く、外海はうねりも大きく、さほど大きくないカーフェリーはぼちぼち揺れる。普段からオフロードバイクで道なき山林を走り回っている俺は平気だが、船に馴れていない人間はほぼ船酔いするだろう。
俺が客室から甲板に出ると、案の定、一人の女性客がうずくまっていた。七分丈のジーンズにボーダー柄のTシャツとたすき掛けにしたスポーツバッグの彼女は顔は伏せているが見た感じかなり若く、かなり切羽詰まった様子だった。
「おいおい、大丈夫か?」
「……うぷ。気持ぢ、悪い……す」
「あー……吐けるなら吐いた方が楽になるぞ。ほれ、袋」
俺が船に備え付けてあるエチケット袋を彼女の口元に差し出し、背中を軽く叩いてやれば彼女はえずき始め……。
「おぇっ! おぇっ! おぇぇぇぇ……。げほげほっ」
激しく戻して、自分の吐瀉物の臭いに噎せて更に咳き込む。そんな彼女の背中を撫でてやりながら落ち着くのを待つことしばし。
「……ぐずっ。ずびばせんでした。ありがどうございばす」
涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を上げる彼女。なんかもう色々と残念すぎる。
「…………」
俺はとっさにリュックからバックパッカーの必須アイテム、体拭き用の使い捨てウェットシートを取り出して彼女の顔を拭ってやった……が、こんな見ず知らずのおっさんがいきなり若い女性の顔を拭うのは不味かったかなーとやってしまってから後悔する。これ、セクハラになるのか?
この場合の正解はウェットシートを渡して彼女が自分で汚れを拭き取ることだっただろう。が、幸いにして彼女はあまり気にするタイプではなかったようだ。むしろ、
「……あうぅ、重ね重ね すみませんっす」
と、恐縮していたので俺は密かに胸を撫で下ろしていた。
改めて彼女の姿を見れば、思ったよりもずいぶん若そうに見える。最初は大学生ぐらいかと思っていたがおそらく高校生だろう。
ボブショートの黒髪、目にかかるぐらいの長めの前髪、化粧っ気のない健康的に日焼けした顔にはニキビがポツポツと浮かび、体型はややポッチャリめだがデブというほどではない。目は隠れ気味だが顔立ちのバランスはいいので、このまま成長すれば数年後にはかなりの美人に化けるだろうなと将来性に期待できそうな、今のところはまぁ普通の少女だった。
「……ええっと、お嬢さんは学生さんかな? 保護者の方は?」
「あー、はい。高校2年生っす。あたし、島出身なんすけど、島には高校が無いんで普段は本土の方に下宿してて、今日は実家に帰省する途中なんすよ」
「ほー、島の子か。離島出身でそれだけ船酔いするってのは大変だな」
「いや、普段はこんなに酔わないっすよ! ちょっと体調不良で昨日が寝不足だったのと、電車での数時間ですでにヘロヘロなのと、朝ごはんを食べれなかったんでせめてと昼ごはんを食べすぎちゃったのと、あといつもより海が荒れてるのがいかんのです。……それに、今吐かせてもらってだいぶ楽になったっす」
実際、普通に会話が出来るぐらいには回復しているようだ。
「そうかいそうかい。まぁ、酔ってる時は遠くの景色を見てる方がいいからしばらくは甲板にいた方がいいだろうな」
「そうするっす。……おにーさんは島には観光っすか?」
「おにーさんって……気を遣わないでおっちゃんでいいぞ。俺ももう30代後半だから、早く結婚した同級生の中には君らぐらいの歳の子供がいる奴もいるしな」
高卒ですぐ結婚して19歳の時に生まれた子供なら36歳の今ならちょうどこの少女と同じぐらいか。俺もおっさんになったもんだなぁ、とちょっとしみじみする。
しかし彼女の返答は想定外だった。
「ほー。でも見た目はすごく若々しいっすから、おっちゃんって呼ぶ方が抵抗あるっすよ。そもそも島じゃ40代でまだ若手っすし、30代なんて完全に若者扱いっすよ」
「……高齢化が深刻だな」
大丈夫かその島? 少女がにへらっと笑う。
「はは。高齢化どころか超高齢社会の離島の宿命っすね。で、おにーさんは島には何しに行くんすか? 移住の下見なら大歓迎っすよ?」
この子もなかなか強かだな。だが、確かにそこまで高齢化が進んだ島なら働き盛りの男手は欲しいだろう。
「残念ながら観光半分、仕事半分ってとこだな」
「そっすかぁ。残念。おにーさんって普段は何やってる人っすか?」
「普段は高原の別荘地でジビエ料理の店を経営してるんだが……ちょっと色々あってそっちは休業してバイクで一人旅をしてるんだ。昔もこんな風に一人旅をしてその紀行文をアウトドア雑誌に掲載してたから、その伝で今回のこの旅も紀行文にする予定だ。だから半分仕事ってことな」
「おー、ジビエ料理いいっすねぇ。……んー? はっ! もしや、そのアウトドア雑誌とは『バックパッカーズ』っすか?」
にこにこと相槌を打っていた少女が何かに気づいたように俺をしげしげと見て、確信した様子でその雑誌名を口にする。
「ほぅ、マニアックな雑誌なのによく知ってんな」
「うちの父ちゃんがアウトドア好きでちっちゃい頃からよくキャンプに連れてってくれてて、バックパッカーズは実家に数十年分とあるっすよ。あたしもちっちゃい頃から訳がわからないなりに読んでたっす。それで……おにーさんは『ぶらり旅日記』のシェルパ谷川っすよね?」
「……っ!」
正直、驚いた。『シェルパ谷川のぶらり旅日記』は俺が以前バックパッカーズに連載していたコラムのタイトルだ。
「マジか。たったこれだけの情報でよく分かったな。確かに俺がシェルパ谷川こと谷川岳人だ」
「わぁ! やっぱり! 以前の写真つきインタビューで見た記憶はあったんすよね。本物の『サバイバルマスター』シェルパ谷川に会えるなんて感激っす。シェルパの紀行文はイラストが一杯でまるで絵本みたいで分かりやすかったからちっちゃい頃から大好きだったんすよ。こんなところでご本人に会えるなんてめっちゃ嬉しいっす。島に着いたら是非うちの実家にも寄ってほしいっす。父ちゃんが絶対大喜びするっすよ!」
嬉しい言葉に思わず口元が弛む。
「そっかぁ、俺の紀行文を楽しんでくれてたんだな。ちなみに親父さんは何やってる人?」
「うちは農家兼漁師って感じっすね。島の特産品で村起こしをしようってんで色々頑張ってるっすよ。あたしも将来的には父ちゃんの事業を手伝えるように今は農大付属高校で農業の勉強をしてるんすよ」
「お嬢さんもその若さで将来を見据えて頑張ってるんだな」
「……おぅふ! お嬢さんって呼ばれると背中がムズムズするっすね。あたしは浜崎美岬っす。ミサキと呼んでほしいっす」
……ミサキ。その名を聞いて一瞬動揺してしまったが、何事もなかったかのように続ける。
「ミサキちゃんね。山偏に甲の岬?」
「や、まぁそうなんすけどぉ……恥ずかしながら、美しい岬と書いて美岬っす。こんなデブでニキビ顔で地味なあたしに美しいなんて字を入れるなんて名前負けっすよね~」
と、口を尖らせる美岬。どうやらかなり外見にコンプレックスを感じているようだ。
確かに今の美岬はぽっちゃり気味だし地味ではあるが、それでも俺的にはそこそこ可愛いと思うし、潜在力はかなり高そうだからそこまで気にするほどではないと思うんだよな。ぶっちゃけ、美岬の場合ただ痩せるだけでかなりの美少女になりそうなんだが。
「そんなことないさ。全然名前負けなんかしてないから気にするな。そもそも、成長期の女の子なんてホルモンのバランスが安定してないからどうしても太りやすくなるものだし、ニキビが出るのも当たり前のことだ。女性の体は成長期が終われば痩せやすくなるし、美岬ちゃんの顔立ちはむしろ整ってる方だから、将来はまず間違いなく美人さんになると思うけどな」
「ほえ? そ、そっすかね? そんなこと初めて言われたっす」
意表を突かれたような美岬にうなずいてみせる。
「そもそも高校生なんて成長期真っ只中なんだから。例えるなら蝶になる前の蛹や毛虫みたいなもんで名前負けとか言うには早すぎる段階だ。気休めとかじゃなくて、美岬ちゃんは将来絶対美人になると思うぞ。だから気にするな」
「そ、そうなんすかぁ。分かったっす。これから頑張って健康美人を目指すっすよ!」
ぱぁっと明るい笑顔になった美岬の前髪を甲板を吹き抜けた風が踊らせ、隠されていた目があらわになる。
なんだ、笑ったら普通に可愛い子じゃないか。
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