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大体の家事が済んで身支度を整えると、一足遅れて私も家を出た。
二人で借りている1LDKのマンションは、エレベーターやオートロックがついていて快適だ。
大樹の職場の近くにしたから、正直私の通勤は不便だけど、築年数も浅く綺麗だから気に入っている。
燃やせるゴミの袋を一つ手にしてエレベーターを降り、一階のゴミ置き場に捨てるとマンションを出て駅へ向かった。
駅までは早歩きで15分。夏場のこの時期は到着する頃には汗だくになる。
大樹のように車通勤できたらと、ため息をついて改札を通った。
電車を乗り継いで一時間ほど。ようやく職場の最寄り駅に到着し、また歩き出す。
幸い、職場の方は駅からすぐだから、ここまで来てしまえば苦ではない。
「おはようございます」
「おはよう! 峰ちゃん」
『ルオーゴ食堂』には既に店長の姿があった。恰幅の良い陽気なおじさん。私の師匠でもある。
「いつも早いね」
「ちょっと試したい食材があったので」
早速更衣室でコックコートに着替え、黒の前掛けをつける。
きゅっと引き締まった気持ちになり、背筋をピンと伸ばして厨房に立った。
調理師学校を卒業してから、数年はホテルのイタリアンで修行していたけれど、もっとお客様の顔が見たいと一念発起して、創作パスタのお店『ルオーゴ食堂』に転職した。
オープンキッチンなのでお客様との距離が近いし、空いている時は接客もさせてもらえる。
今の働き方は自分に合っていて、とても充実していると感じていた。
幼い頃からの夢だったコックさん。いつか独立したくてコツコツ貯めてきたお金は、結婚資金に変わりそうだけど、それでも私は毎日が幸せだ。
「いらっしゃいませ」
開店と同時に来店したお客様に、思わず顔が綻ぶ。
「黒沢さん!」
背の高いふくよかな男性が、私に向かって遠慮がちに会釈をした。彼の名は黒沢さん。
黒沢さんは、もう何年も前からの常連さんだ。
「こちらへどうぞ」
いつものカウンター席に腰かけ、黙ってメニューを眺める黒沢さん。
彼はこの近くのオフィスで働いているらしく、ほとんど毎日ランチで利用してくれる有り難いお客様だ。
「黒沢さん、今日の日替わり、夏野菜の冷製パスタですよ。茄子やパプリカ、ズッキーニのマリネがさっぱりとしていて、生ハムの塩気と良く合います」
「じゃあそれでお願いします」
柔らかく微笑む黒沢さんに癒されて、私も笑顔で「かしこまりました」と頷く。
「大盛りですね?」
「大盛りで」
笑う時に下がる眉毛がくうちゃんに似ていて、ホッと心が和む。
黒沢さんは口数が少ないけれど、穏やかで優しそうな人だ。
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