過ぎ去りし夏

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過ぎ去りし夏

1d0a462c-f0df-4a61-ae39-86ce93ccf40e  晩夏の蝉、ヒグラシの「カナカナ」という音が、秋の訪れを告げている。雨上がりの夜空の下、年老いた母と実家の居間で、静かに酒を酌み交わす。 「盆も正月も帰れなくて、ごめんな」  煙草をくゆらせながら、俺は言葉を濁し、ぼそりと呟いた。「来月、離婚するんだ」。母は黙って、ただ静かに頷いた。  そばには亡き父親の位牌と写真があり、まるで俺の久しぶりの帰省を見守っているようだった。手が震え、遺影に捧げる線香の火がつきづらい。 「親のことなど気にせず、都会で恥じることなく生きろ」と、遺言のように呟いた父親の言葉が、今更ながら心に深く響く。  母の白髪が増えているのを見て、目頭が熱くなった。仕事を理由に、長い間帰省を怠っていた。杜撰な性格が災いして、多くのことが狂ってしまったわけではないが、それが一因となったのは事実だった。母は黙って、涙をこらえて聞いていた。彼女にだけは、子どもを東京に残してまでひとりで帰ってきて、謝りたかった。  母親は山里奥に佇む小さな村に嫁いで、もう五十年以上経つのだろうか。この町で生きてここしか知らない女性だった。それでも彼女は俺と兄貴を生んで育てて生き切った。俺は母さんに「ありがとう」と言いたくなる。  今は兄貴夫婦が住んでる家に昔と同じく灯りがともる。母親は俺と遠い世界で気強く寂しさを堪えたのだろう。母親が見せてくれない心の傷跡が身に沁みていく。「おまえは愚か者だ」となじってくれれば楽になる。俺は死ぬまであんたの子供だというのに……  夜風が蝉の声を運び、秋の気配をそっと教えてくれる。母とのやり取りは少ないが、その沈黙の中には深い愛と理解が流れている。煙草の煙がゆっくりと天井に向かって消えていくように、俺の心の中のもやもやも消えてほしい。 「来月、女房と離婚するんだ」。この言葉は、俺の心の奥底から絞り出されたものだ。母は何も言わず、ただ静かに頷いた。その頷きは、言葉以上のものを俺に伝えていた。  亡き父親の位牌と写真が、時を超えて俺を見守っている。父の遺言のような言葉が、今、俺の心に新たな意味を持って響く。「恥じないように生きろ」。その言葉が、俺のこれからの道しるべになる。  母の白髪は、時間の流れと共に増えていった。それは、俺が見てこなかった日々の証だ。仕事を理由に帰省を怠ってきた俺だが、今、母の前で、そのすべてを謝りたい。  母親はこの小さな村で一生を過ごし、俺と兄貴を育て上げた。その強さと優しさに、「ありがとう」とただひたすら感謝の言葉を伝えたい。  兄貴夫婦が住む家には、昔と変わらぬ温かい灯りがともる。母親は、家族と離れても、その寂しさを力強く耐えてきた。その姿が、俺の心に深く刻まれている。 「おまえは愚か者だ」と父に叱られれば、どれほど楽になるだろうか。でも、俺は父と母の子供であり、それが何よりの誇りだ。この家に帰るたび、その事実を強く感じる。雨上がりの蝉の音色が切なく耳に届き、胸を締め付ける。  その音色は、過ぎ去った夏の日々と、これから訪れる秋の変わり目を告げるように、俺の心の中だけに響く。  心の奥底に、静かなる波紋が広がる。  過ぎ去りし季節の記憶、  秋風に乗せて、ひとしずくの涙とともに。  父よ、母よ、  この胸に秘めたる想い、  言葉にならぬまま、夜空を彷徨う。  蝉の声、遠く霞む夏の終わりを告げ、  心の隅に、ひそやかに秋を呼ぶ。  ああ、この切なさは何故、  遠い日の幻に、心は揺れ動く。  離れゆく人の影を追いかけて、  ただひとつの願いを、星に託す。 「愛する人よ、さようなら」  その言葉が、夜風に乗り、  遠く、遠く、彼方へと消えていく。
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