第二話

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 紫苑は()てつくような静かな怒りをたぎらせ、彼に凄みをきかせる。  普段の温厚篤実(おんこうとくじつ)ぶりからは想像もつかないような眼光の鋭さだった。 「人攫い……? ご、誤解だ。そんなつもりなど────」 「こちらは鳳家のご令嬢だ。手出ししようものならただでは済まない」  あまりの気迫に気圧(けお)されていた彼だったが、それを聞いた途端にはっとした。  じっと春蘭を見つめる。 「そなたが……」  終始どことなく憂いを帯びているような彼の顔が、ほんのわずかだけ綻んだ。  (かげ)っていた瞳に淡い光が射す。  彼の反応を(いぶか)しんだ紫苑は露骨(ろこつ)に眉を寄せ、春蘭に向き直る。 「お嬢さま。この不審人物をこのまま官衙(かんが)へ突き出しましょう」  官衙といえば各州都(しゅうと)に置かれた役所で、罪人の捕縛(ほばく)も担っていた。  そんなことになれば面倒なこと請け合いだ。  焦りながら紫苑の手を抜け出した彼は、さっと急いで距離をとった。 「わ、わたしはもう行かねばならぬ」  では、と素早くふたりに背を向け、足早に歩き出す。 「待って」  それまで沈黙を貫いていた春蘭が口を開いたことで、彼は反射的に歩を止めてしまった。  どうしても官衙へ連行するつもりなのだろうか、と狼狽(うろた)えて視線を彷徨わせる。 「あなたの名は?」  予想外の言葉に思わず振り向いた。  春蘭から害心や邪心(じゃしん)を感じられなかったためか、先ほどまでの危機感が浄化されていく。  ふわ、とどこからか運ばれてきた花びらが舞い上がって流れてきた。 「……再び、会ったときに。だから────」  そこまで言いかけて、ぎくりと身を強張らせる。  また会おう、という言葉は紫苑の醸し出す殺気に負けて口にできなかった。 「で、ではな」 「あ、ちょっと!」  逃げるように(きびす)を返し、雑多な人混みに溶けていってしまう。  彼の姿はすぐに見えなくなった。 「お嬢さま、お怪我はありませんか?」  さっと春蘭に向き直った紫苑は、青ざめた顔でそう聞きながら確かめる。 「大丈夫、大丈夫よ。この通り何ともないから」 「傷や痕のひとつでもあったら……」  心配が拭えず、答えに構わず春蘭の手を取った。  あの男に掴まれていた手首を真剣に眺め、赤くなっていないことを確認するとようやく安堵の息をつく。 「……よかったです。何事もなく」 「もう、紫苑はいつも大げさね」  困ったように笑われたが、そうなるのも無理はないだろう、と紫苑は胸の内で正当化した。  目を離したらいつも何事かに巻き込まれているのだ。案ずるなという方が無理な話である。  それだけではない。  先ほどの男といい、光祥といい、やけに見目麗しいがつくこともまた、紫苑を悩ませる一因だった。
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