第十話

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 ────しばしの沈黙を経て、春蘭は茶杯を手に取った。  慎重に香りを嗅いでみる。微かに甘いような気もするが、特にこれといったにおいはない。  さらに困ったことに、この茶杯は内側が深い藍色であるため、中身の正確な色が分からない。少なくとも濁っておらず、澄んでいることだけは確かである。 (毒入りじゃないわよね……?)  まさか、さすがに、と思う反面、気性が荒く根に持ちやすい帆珠であれば、見せしめのためにそれくらいしてもおかしくないとも考えられた。  躊躇のために止まった手が動かない。 「何をしてるの? さっさと飲みなさいよ」  ふと帆珠の表情に興がるような色が混ざる。  間違いない、と確信した。彼女は自分を試している。  春蘭は茶杯を口元へ運ぶとそのまま傾け、一気に飲み干した。  令嬢たちの間にざわめきが起こる。 「……うっ」  甘やかな独特の香気(こうき)が抜けるが、強い苦味が口の中に残る。舌や喉が痺れるような感覚がした。 (何これ……)  結局、茶杯を空けても中身の正体は分からずじまいである。少なくとも冷茶や即効性の毒でないことは確かだった。  しかし喉のひりつきにおさまらず、次第に頭にまで痛みが響いてきた。思わず表情を歪める。  それを見た帆珠はせせら笑った。 「その顔は何? わたしの淹れた冷茶がそんなにまずかった?」  額に手を添え、ずきずきと割れるような頭痛を必死でこらえながら、春蘭はどうにか微笑をたたえる。 「……とんでもない。今度、お礼にわたしも淹れてあげる」  令嬢たちは互いに顔を見合わせた。それぞれ驚いたような表情を浮かべている。  帆珠という絶対的な存在の前でも終始萎縮(いしゅく)することなく気丈に振る舞う彼女は、いったい何者なのだろう。  瑠璃の令嬢も感嘆ののちに口端を上げる。  興味をいっそうかき立てられる結果となった。この“勝負”は誰の目から見ても春蘭の勝ちだ。 (何なのよ、この女……)  険しい顔つきの帆珠は腿の上で拳を握り締める。衣にしわが寄った。  想定していた展開とまるでちがう。みっともなくひれ伏しながら許しを請う姿をさらし者にしてやるつもりだったのに。  まさか、差し出したものをそのまま飲むとは思わなかった。 「……っ」  ふつふつと湧き上がる怒りに身を任せ、立ち上がった帆珠は卓の上にあるものを()ぎ払う。  ガシャン! と大きな音が響き渡った。茶器や皿が割れ、水浸しになった地面に破片や菓子の残骸(ざんがい)が落ちる。  おののいた令嬢たちは悲鳴を上げあとずさった。瑠璃の令嬢も驚いたように帆珠を見やる。 「……今日の茶会は中止よ。さっさと帰って!」
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