はじまり 

3/3
前へ
/16ページ
次へ
仕事が終わり晩飯を食べに、行きつけの居酒屋へ寄る。 「それにしてもあの要救助者の男はクズでしたね『俺から助けろー!』ですよ」 敦が唐揚げを食いながら愚痴を言う。 「驚いたよ、映像にクズっぷりが残ってたな。もし彼女に何かあったら、モザイクなしでネットに晒すわ俺」 通信士の古田も腹が立ったようだ。 「古田さん、バレますし。駄目ですし」 命がかかっているときには、人間は本性が出る。 カルネアデスの板じゃないけど、法律でいう「緊急避難」の考えに通じているから文句は言えない。 「要救助者のことをヘリで何も聞けなかった。名前も年齢も分からずじまいだった」 問診できるような状態ではなかった。 「ああ。報告書には、二十七歳会社員。え?女性ですよね男の方?」 「いや、女の方。おっさんの年齢なんてどうでもいいわ」 「敦、若い子が珍しいからって、個人情報の漏洩はヤバい」 さっきネットに晒すって言った人が!と敦が古田さんにツッコミを入れていた。 「足がさ、めちゃ綺麗で。生足で上がってきたから目が釘付けになったわ」 「おっさんもガン見してただろう?腹立つから背中で押しといた」 ハハハと居酒屋の空気が和む。 そういえば、彼女はズボンを履いていないと恥ずかしがっていた。 可哀そうだが、ああいう状況では仕方がない。 そこの話はデリケートな問題なので、膨らまさずに話を変えた。 「救助しようと飛び込んだのは勇気ある行動だ。表彰されるかもな」 「また会える可能性大ですね!」 「危険な行為だ。無謀だって説教しないように気を付けるよ」 苦笑する。 「そもそもが、あのおっさんがフェリーから落ちたのが阿保なんですよ。なんで柵を超えるかな?」 「船から海面まで五メートルはあったでしょう。普通怖くて海に飛び込むなんてできないですよ。しかも女性で、一般人でしょ?」 二人とも助かったからいいものの、下手したら命を落としていた。 門脇は彼女のことを考えた。 なんとなく彼女の顔に見覚えがあるような気がした。 「びしょ濡れだったし、青ざめてたから顔をあまりよく見てなかった……」 「めちゃ綺麗な人でしたよ。門脇さんと同じ歳じゃないですか」 「……」 「どうかしました?」 「彼女の名前なんだっけ?」 「覚えてないです。伊藤さん?だったかなぁ……明日報告書確認すれば、電話番号とかも分かりますよ」 伊藤か…… 「人命救助した後の酒は格別に旨いっすね」 「美人を助けたら恩返しに来るあるある、ってねーのかな」 「モテますよ、海保。門脇さんなんてイケメンだから、病院行ったらいつも看護師が集まってきますよ」 「俺も門脇のこと聞かれるわ。モテる男はつらいな」 そんなことはないと適当に返事をする。 一般人は海保が全員海猿だと思っている。昔の映画の影響か、若い女性に人気があった。 実際は海保一万四千人の中で機動救難士は数パーセントしかいない。 「女の子にわざと溺れようかなって言われた事あるし。マジ、勘弁だわ」 「命かけてどうするんだ」 門脇もビールを一気に飲み干した。 伊藤という名に反応したが、皆には悟られないようにした。 適当に仲間の話に相槌を打った。 彼女はもしかしたら、伊藤……明里……かもしれない。 ◇ 高校二年の時、俺と明里は同じクラスだった。 彼女の気取らない性格と、自然体で大人っぽい雰囲気に魅かれ、明里のことが気になっていた。 彼女は当時家の事情で、かなりハードな学生生活を送っていた。 俺には彼女が高校生でありながら人生を達観しているように見えた。 成り行きで、三日彼女と共に北海道を旅する事になった。 その中で彼女の信頼を得て、そこでお互いの気持ちが交わった。 ……と思った。 確かに彼女も俺に好意を抱いていたと感じた。けれど、それは一方通行だったようだ。 正直言って、俺は高校生の頃はまだ子供で、その世代の女の子が何を考えているのかなんて理解してなかった。 彼女は勉強ができて、スタイルも良く美人だった。 そんな彼女と俺が付き合えるはずもなかったんだろう。 今考えれば、思春期の青年特有の感情が、俺の勘違いを引き起こして、それは失恋の苦い思い出となった。 とにかく告白して振られた。 まあ、良くある話だと言われればそれまでだ。 しかし門脇にとっては触れられたくない過去の黒歴史だった。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加