明里 

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 明里 

世の中に地獄というものがあるなら、今、まさにそこにいる。 救助されて三日が経った。 特に異常はなかったが、ヘリで搬送される間に意識を失ったらしく低体温も心配されたので入院する事になった。 「君が勇気ある行動に出てくれたことは素晴らしいと思うし、そのおかげで命が助かったのは事実だ」 恋人の山下貴司(やましたたかし)が明里の病室のパイプ椅子に座っている。 明里はベッドに半身を起こして話をしていた。 「……」 「でも、婚約者の女性に救助されたとか、やっぱり男としてどうなんだって思うだろう?普通はそうだよね」 「貴司さんは、何が言いたいんですか?」 彼はフェリーから転落した。 スマホが海に落ちそうになって、それを拾おうとしてバランスを崩して落ちた。 それを見ていた観光客が騒ぎ、近くにいる人が浮き輪を海面に向かって投げた。 けれど、船の上からでは、彼の姿が見当たらなかった。 船は進んでいた。 私はとにかくライフジャケットを着用して海に飛び込んだ。 必死に探して、私はやっと彼を見付けた。 フェリーの操舵室に乗客の連絡が入り、船が停止したのは転落してから数分後。随分進んだ後だった。 私たちが気付いた時には、もうっずっと船の姿は小さくなっていた。 そこから、ゆっくり海に流されて救助を待つことになった。 「あなた、海にいる間ずっと文句言ってたわね」 「そうだよ。すぐに落ちてしまうような船の作りなのはおかしい。乗客の安全をもう少し考えた設計にすべきだ」 自分がどんくさかっただけでしょう。怖くて泣き叫んでいたのは誰なのかしら。 「たくさん目撃者がいたわ。今更、私が先に落ちた事にするなんて無理よ」 スマホで撮影していた人がいた。映像が流れている。私が救助するために飛び込んだことは世間に知られている事だ。 「もうニュースになっているから、今から逆だったというのは無茶だろう。だけど、実際君も救助されたわけだし。何の役にも立たなかったじゃないか。結局二人で流されてしまったんだから」 頭痛がする。上司の勧めだったとはいえ、彼と無理に付き合うべきではなかった。 「なにも嘘をつけとは言っていない。君は僕が心配で海に飛び込んだんだ。それは間違いないだろう。無駄な事は言わなくていいと言っているだけだ」 無駄な事とは何だろう。 「あなたは救命胴衣を着ていませんでしたよね。私が着ていたライフジャケットを取り上げました」 「と、取り上げた、とか意味の分からない事を言うな。救助しに来た君が俺にライフジャケットを渡したんだろう」 「早くそれをよこせって言ったでしょう」 「どうしたいの?自分が褒められたいのか?結婚するんだから、旦那を立てるのは当たり前だろう」 情けない自分の姿を世間に知らせる必要はないという意味ね。 結婚しようと思っているのは彼だけ、告白されたから付き合う事にしたけど、今回の件でこの人とは絶対無理だと思った。 「私が救命胴衣を着ていた事はフェリーの乗客が見ています。救助された時に貴司さんがそれを着ていた理由を聞かれます。あなたが溺れそうだったから渡したと言えばいいですか?」 「溺れそうだったとか、よこせと言ったとか、そういう人を貶めるような言い方をすべきじゃない」 なんだか自分が性悪女だと言われている気がした。 確かにこの人を悪く言いたくはないが、あの時貴司さんは、恐怖で泣き叫んでいたではないか。 この人は、自分が恥をかきたくないと思っているだけだ。 「それによって、私が浮力を失って溺れるとは考えませんでしたか?貴司さんより体力はありませんし、性別も女性です。力だってないわ。いいわ、正式に婚約している訳じゃないし別れましょう」 結婚したいと言ったのは彼だった。彼は三十五歳だ。年齢的にも、男性の適齢期を過ぎてしまうから焦っていたんだろう。 「な、何を言っているんだ。今更そんな事、無理に決まってる。婚約が解消になったら、君は今までにかかった費用を負担する事になるぞ。慰謝料だって発生する」 無理。この人絶対無理だわ。 「私は結婚を承諾した覚えはありません。返事はしていません。考えますと申しました。考えた結果、無理だと結論がでました。以上」 なんで同じ病院に搬送されたのかしら。 地獄だわ。
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