現場検証

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現場検証

一週間後、私はフェリーに乗船していた。 転落事故がどういった状況で起きたかの実況見分が行われた。 事故が起きた時に被害者や加害者などの当事者立会いのもと、事実確認や証拠保全を行う任意捜査だ。 もちろん貴司さんもよばれていた。 彼とは何度も不毛なメールのやり取りをした。 『なんと言われようと、もう貴方とお付き合いはできません』 『別れます』 『あなたのことは嫌いです。恋愛感情はありません』 その繰り返しだった。 『交際関係の解消は、法律上、相手が同意しなければ別れられないとか、別れる正当な理由が必要ということは一切ありません。さらには、別れるにあたり、慰謝料支払義務が生じることもありません』 法律という言葉に腹が立ったのだろう。それ以降メッセージはこなかった。 命がけで救助しようとしたのに彼からの感謝の言葉はなかった。 彼が言うように、私が海に飛び込んだのは無駄な行為だったのだろう。 ライフジャケットを彼に渡したことも、先にヘリに救助をしてと頼んだことも、彼には無かったことだったらしい。 確かに、貴司さんが私ではなく海上保安官に助けられたのは間違いない事実だ。 今はもう彼に対する愛情など、片鱗も残っていなかった。 なんなら憎悪すら覚える。 できれば二度と顔も見たくない。 ◇ 「船の手すりが簡単に乗り越えられたので、バランスを崩して落ちてしまいました」 貴司さんは、自分が海に落ちた時の状況を説明していた。手すりが悪いと言っている。 「一応規定の高さですので、これ自体には問題はないですね」 海上保安官に軽くあしらわれていた。 手すりに不具合があったわけではない。完全に彼の行動が問題だった。情けないなと思った。 「山下さんが落ちた後ですが、その時点からスマホで動画撮影している方がいたので、その動画を入手しています。ですのでそれ以降の状況把握はできます」 入院中にスマホでニュースを見ると、SNSに私が船から飛び降りる動画が上がっていた事を思い出した。 顔がモザイク処理されていたので、そのまま放置する事にした。海上保安官はその映像を入手したんだなと思った。 「伊藤さんは怖くなかったですか?躊躇せず飛び込んでいましたよね」 あの時は結構必死だったと思う。 「そうですね。後から考えると怖かったです」 「彼女は女だてらに、勇ましいところがあるんでね」 貴司さんが笑った。女性を馬鹿にしているような言い方に空気が悪くなる。 私は眉根を寄せた。 「船が動いていたので、このままでは彼を見失うと思い飛び込みました。浮き輪を投げ入れていたんですが、彼の姿はどこにもなかったので、直接助けようと思いました」 「他の誰かに助けを求めようとは思いませんでしたか?」 「たくさん人が見ていたので、救助要請は誰かがしてくれると思いました」 一通り説明を終えると、私達はその後、第A管区海上保安本部に連れて行かれることになった。 「明里、俺は車で来てるから乗っていくといい」 「海上保安官の方が乗せて下さるようだから必要ないわ」 ごく普通の会話として、私は彼にそう告げ同乗を断った。 「まだ怒っているのか?」 ここで内輪もめをするわけにはいかない。 怒っているとかではなく、一緒の空間にいたくないという気持ちの方が大きい。 「いいえ。乗せて下さると言って頂けたからそうするのよ」 保安本部まで各自で来いと言われたら、バスを乗り継いででも一人で行くわよと思った。 第A管区海上保安本部には、先日私たちを救助してくれた機動救難隊の人たちがいるらしい。 命を救ってくれたお礼を言わなければならない。 なにか手土産を持っていきたいと言ったけど、規則で受け取れませんと言われてしまった。
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