マンション

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タクシーで二十分ほどで自宅のマンションに着いた。 週明けからまた仕事が始まる。 今回の件で一週間休みをもらっていたので、仕事が山積みになっているだろう。ぞっとするけど、ひとつずつ片付けていくしかない。 「貴司さんと別れたことを、上司になんて言おうかな……」 紹介してもらった手前、別れた事を言わなければならないだろう。 手洗いうがいを済ませて、ソファーに腰を下ろす。 髪を頭上で束ねて、クッションを抱え込んだ。 貴司さんは普通に礼儀正しく、普通に性格も温厚で、普通にエリート教育を受けた家柄の良い人だと感じた。 きっと上司もそう思ったのだろう。 蓋を開けてみると、死ぬ間際に恋人を生贄に差し出す男だということが分かった。 「貴司さんはクズなのは間違いないわ。上司も私も人を見る目がなかったということよ。気付けたことは私としては成長だ」 無理に誰かに合わせる必要はない。 結婚が必ずしも必要ではない。 一人の方が気が楽だ。 だいたいよく考えてみたら、自分で働いてそこそこ収入もある。 好きな時間に食事ができて、好きな場所に行って、好きな物を買える。 誰かのパンツを洗ったり、誰かの汚した床を掃除したりする必要はない。 なんで今まで気が付かなかったんだろう。 めちゃくちゃ楽じゃないか、おひとり様。 そうと決まれば買い物だ。 いつもは時間がかかるからめったにしないけど、私の得意料理『スペアリブの味噌煮』を作る事に決めた。 お酒だってウォッカよ。一気に酔えるし、ジュースで割ってもソーダでも何で割ったって美味しい。 動画だってモノクロの名画を見る。 そんな趣味に付き合ってくれる人はいない。一人ならば気にせずどっぷりその世界に浸れる。 大量に買い物をしてマンションのエントランスでエレベーターを待っていた。 「重たいけれど大丈夫。これが私の血となり肉となる。それは誰かの肉になるわけではない。私の肉になるんだ」 「呪文?」 ハッとして後ろを振り返る。 「か、門脇君!」 なんで門脇君がここにいるの? ストーカー?いや、え、もしかして個人情報を報告書から盗ん…… 「職権乱用はしてない。俺もここに住んでいる」 「え?」 「持つよ」 門脇君は私の買い物袋をひょいと抱えた。 私たちはそのまま私の部屋のあるマンション八階まで辿り着いた。 「俺は同じマンションの十階の六号室。この部屋のちょうど真上。報告書読んで驚いた。明里と同じマンションだった。二年住んでたけどお互い顔を合わせた事はないな」 「そ……うなんだ……」 「んじゃ、ま。料理頑張って」 彼はそういうと玄関前から立ち去った。 「ちょ、ちょっと待って」 私は急いで追いかけた。 何を言う? いや、いろいろ言わなければならない事がある。 「……なに?」 「えっと、その。今回は命を助けてくれてありがとうございました」 「ああ」 「よければ、お茶でも飲んでいく?」 「あ……断る」 断られた。 嘘でしょ?積もる話とかないのか? ここは粘るべきかな。 「門脇君が、海保になって北海道にいるなんて知らなかった。偶然だったけど、迷惑をかけて申し訳ありませんでした。それと、私の元だけど元カレが礼儀知らずの最低男でごめんなさい。それと……」 「人命救助が仕事だから」 「そうね。ありがとう」 「じゃ」 「ちょ、ちょっと待って。なんでそんなに、そっけないの?十年ぶりに会ったんだよ」 「……」 私は額に手をあてて、深い息をついた。 駄目だ、何をいっているの私。 彼は断っているし、私と話をしたいと思ってない。 「ごめん。ありがとうの押し売りみたいだったね。お仕事お疲れ様です。国民の一人として、感謝しています。それじゃ……あ、荷物を運んでくれてありがとう」 私はそう言って笑顔で彼に手を振った。 「誰か来るの?」 「え?」 「大量の食材だし」 ああ。買い物の量が異常だよね。 「誰も来ない。久しぶりに料理しようと思って買いだめしたの」 「何を作るの?」 「肉」 「肉?」 「スペアリブの味噌煮」 「できた頃に食べに行っていい?」 私は頷いた。 「二時間はかかる。それでも良ければどうぞ」 「二時間後、行くよ」 彼はそう言って階段の方へ歩いて行った。 いったい何が起こったのか。 さっき海上保安本部で会ったばかりの彼と、マンションで出くわすとか。 嬉しい気持ちで心が落ち着かない。 運命? 私は頭をぶんぶんと振った。 ただの高校時代の同級生。 今の彼がどんな生活をしているのか分かっていないのに、相手の心情も考慮せず深く入り込もうとするのは良くない事だ。 しかもさっき一人で生きるって言ったとこだろう。明里しっかり。 ドキドキする胸を押さえて、部屋へ戻る。 門脇君は高校の時より大人になっていた。 モテるだろうな、と思うイケメンだ。 私はどうだろう? あの時はまだ子供だった。年齢も実年齢より上に見られることが多く、落ち着いてるねというのが他人からの評価だった。 今の自分は年相応だと思う。大人っぽいと言われた年齢の子供が大人になったというところだろうか。 化粧も覚えたし、仕事柄、清潔感が出るよう心掛けている。 弁護士の先輩に、女性だからと舐められないようにするのではなく、女性だからを武器にできるよう服装に少し色気を出せと教わった。 パンツスタイルなら、上半身はふんわりとしたものを着たり、色もペールトーンの女性的なものを選ぶようになった。 ギャルっぽいところはない。綺麗ですねとたまに、本当にたまにだけど依頼者から言われることがある。 少しは綺麗になったねと思ってくれただろうか。 門脇君から良く見られたいと思う自分に、この時はまだ気が付いていなかった。
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