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5. ルイーゼの企み
王城へと居を移してから数日後。ルイーゼはクラウスに連れられて王家所有の敷地にある小さな湖に来ていた。
底まで見えるくらいに透明度が高く、エメラルドグリーンの湖面が陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「とても素晴らしい湖ですね、陛下」
湖の水を手で掬いながら、ルイーゼが声を掛ける。
「ああ、美しい場所だろう。ここであなたと一緒に過ごしたかったんだ」
「まあ、ありがとうございます。嬉しいですわ」
美しい自然に囲まれて気分が高揚しているのか、クラウスの機嫌がいつになく良い。
ルイーゼと一緒に過ごしたかったというのは本当かどうか怪しいが、ルイーゼとしても、こうして自然豊かな場所に遊びに来るのは大歓迎だった。
(それに、今日はちょっと作戦を考えてきているのよね。楽しみだわ)
ルイーゼがにんまりと微笑むと、クラウスが手を差し出した。
「ボートに乗ろう。湖の上で見る景色は格別だ」
「はい、私もボートに乗ってみたかったんです。ぜひ乗りましょう」
ルイーゼが嬉しそうに返事をすると、クラウスも楽しげな笑みを見せた。
そうして、そのままボートが横づけされている桟橋へとエスコートされ、クラウスが先にひらりとボートへと移った。
「あなたはその柵に掴まったほうがいい」
そう言ってルイーゼのほうへと手を差し伸べるクラウスを見て、ルイーゼは原作のある場面を思い出した。
(……これ、アンネリエがルイーゼの仕掛けた罠にはまるシーンだわ)
そう、原作でもこの湖が舞台となるイベントがあった。クラウスがルイーゼを差し置いて、アンネリエと二人で束の間の休息を楽しみにきたのだ。
しかし、その予定を事前に聞きつけたルイーゼが、弱みを握った使用人に命令をして罠を仕掛けた。桟橋でボートに乗る際に必ず近寄ることになる柵の付近の床板に細工をし、少しでも体重をかければ床板が壊れてしまうようにしたのだ。
もちろん罠のことなど知らないアンネリエは、細工された床板を踏み抜いてバランスを崩し、それを受け止めようとしたクラウスと一緒に湖に落ちてしまった……という流れだったと思う。
その場面を読んだ当時は心が荒んでいたので、まんまと罠にはまったアンネリエをざまぁと思ったし、女一人受け止めきれずに湖に落ちたクラウスの格好悪さにも胸のすく思いがした。
……けれど、今こうして現実として考えてみると、湖に落ちるって意外と大事だなと思う。
さっき手で掬った湖の水は冷たかったし、そこへ服を着たまま落ちたとなると割と危険だ。
(あれはルイーゼが細工をしていたせいだから、今は床板が壊れてるなんてことはないだろうけど……)
念のため、柵付近の床板を片足でぐっと押してみる。
バキッ!
ルイーゼが体重をかけた途端、床板は真っ二つに割れてしまった。
(えっ、私は罠なんて仕掛けてないのに……)
なぜか壊れてしまった床板を呆然と見つめた後、同じく呆然としているクラウスに向かって苦笑いを浮かべる。
「……床板が腐っていたみたいですね」
自分は何もしていないので、きっとたまたま原作と同じ場所が腐ってしまっていたのだろう。けっこう古い桟橋だし、あり得ないことはない。
「……そのようだな。怪我がなくて何よりだ。ボートは止めにしよう」
出鼻をくじかれてやる気をなくしたのか、さっさとボートから降りようとするクラウスをルイーゼが慌てて引き止めた。
「まっ、待ってください。私、やりたいことがあるんです」
「やりたいこと?」
「ええ。ハンナ、あれを持ってきて」
「はい、かしこまりました」
ルイーゼが侍女のハンナに声を掛けると、ハンナは細長い筒と木桶を持って来た。
「さあ、陛下、こちらをボートに積んでいただけますか?」
「ああ……」
どこか釈然としない表情をしながらも、クラウスが言われたとおりに筒と木桶をボートに積む。
そしてルイーゼも慣れた足取りでボートへと移った。
「では、行ってくるわね!」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
使用人たちに見送られながら、ルイーゼとクラウスの乗ったボートが岸を離れる。
クラウスはボート遊びは慣れているらしく、力強いオール捌きでどんどん漕いでいく。
「わあ〜! 本当に湖からの景色は最高ですね」
「ほら、水がとても透き通っているから、湖の底まで見えますよ」
「ちゃんと魚も泳いでますね、よかった!」
先ほどからクラウスは一言も喋らずに、ただただオールを漕いでいる。
そんなに桟橋が壊れたのがショックだったのだろうかと思いつつ、ルイーゼはクラウスを呼び止めた。
「あ、陛下。この辺で止めてください」
そう言って、筒の中からいそいそと何かを取り出す。ルイーゼが手にしたものを見て、やっとクラウスが一言喋った。
「これは……釣り竿か?」
「はい、陛下の分もありますよ」
「……そっちは何だ?」
クラウスに笑顔で釣り竿を手渡し、筒の中からまた別の何かを取り出すルイーゼにクラウスが尋ねる。
「これは疑似餌です。私の手作りなんですよ!」
「ルアー?」
「はい、本物の餌じゃなくても、これで魚を釣ることができるんですよ」
「まさかそんなことがあるわけ……」
「これも陛下の分も作ってありますのでどうぞ」
ルイーゼが渾身の出来栄えのルアーを自慢げにクラウスに手渡す。ピンク色の塗料で模様をつけた愛らしい外観だ。
クラウスは初めて見るルアーの使い方が分からず戸惑っているようだったが、ルイーゼが丁寧に説明してやった。
「さあ、さっそく釣ってみましょう!」
まずはお手本とばかりにルイーゼが華麗にルアーを投げると、クラウスもルイーゼとは反対側にルアーを投げた。綺麗な放物線を描きながら、ポチャリと湖の中に沈んでいく。
「陛下、お上手ですね。釣りのご経験があるんですか?」
「子供の頃に少し……。というか、それは俺のセリフだ」
「ふふふ、実は私も少々、心得がございまして」
前世でですけど、と心の中で付け加える。
(前世ではよく趣味の釣りに出かけたわね。こういう湖でマス釣りもしたっけ。懐かしいわ〜)
海に川に湖に、いろいろな場所へ出かけて釣りを楽しんでいた頃のことを思い出す。
たくさん釣れたら嬉しいけれど、たとえ一匹も釣れなくても、こうして釣り糸を垂らしてぼーっと風景を眺めたり、潮風や波の音、川のせせらぎ、木々の匂いなど、その場でしか味わえない自然の息吹を感じられるのが釣りのいいところだ。
湖の上で二人きり、釣り竿を動かしながら、ただ黙って座っているだけの時間が続く。
穏やかに凪いだ気持ちで湖面を眺めていると、クラウスがぽつりと呟いた。
「……たまには、こうして無心になるのもいいものだな」
「そうでしょう。それも釣りのよさの一つです」
お互いに釣り竿の先を見つめたまま、目を合わすことなく会話する。それでも、いつもより気持ちが通じ合っている気がした。
「私はこういう生き方が好きなんです。王妃の立場も光栄ですけど、私には荷が重いですし、陛下もこんな王妃は求めていないんじゃないですか?」
「……俺は──」
クラウスが何か言いかけたとき、その手に持つ釣り竿の先が大きくしなった。
「陛下! 引いてます!」
「あ、ああ……」
「これはいい感じですよ! 今です、引っ張って!」
ルイーゼの合図に合わせて釣り竿を引き上げると、虹色に輝く綺麗な魚が飛び出してきた。
「本当に釣れた……」
「陛下、お見事です! なかなかの大物ですよ」
ルイーゼがクラウスを褒めながら、魚の口から手早く針を外して、水を張った木桶の中へと入れる。
「陛下が一匹リードですか。私も負けてはいられませんね」
「俺は別に勝負しているつもりはないんだが……」
「あとでハンナと陛下の侍従の方と一緒に食べたいので、あと三匹は釣りたいところですね」
「これを一緒に食べるのか……」
「もちろん。キャッチ&リリースもいいですが、今日は美味しくいただきましょう」
それからクラウスがまた一匹、ルイーゼが二匹を釣って、目標の四匹を達成することができた。
「今日の釣果は、こんなに立派なニジマスが四匹! 私たち、頑張りましたね」
ルイーゼが釣ったニジマスを片手に、クラウスへ微笑みかけると、クラウスはなんとも形容しがたい複雑な表情でうなずき返した。
「では、そろそろ皆さんの元へ帰りましょうか」
「……そうだな」
「陛下と一緒の釣り、楽しかったです」
「…………」
クラウスは二度目のルイーゼの呼びかけには答えることなく、陸地を目指して静かにオールを漕ぎ出したのだった。
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