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8. 丘を目指して
ある日の夕刻。近衛騎士のオスカーがいつものようにクラウスへの報告にやって来た。
「陛下、失礼いたします。本日も王妃殿下の乗馬練習の件で報告に参りました」
「……続けろ」
クラウスは手元の書類に顔を向けたまま、オスカーに報告の続きを促す。
「はい。王妃殿下とシラユキは随分と打ち解けたようで、気まぐれだったシラユキも王妃殿下には素直に従うようになりました。元々賢い馬だったようですね」
「そうか」
「乗馬の技術も驚くほどの腕前で、一般の騎士にも引けを取らないほどです」
「ほう」
「王妃様からも練習場内だけでは物足りないからとのご要望がありまして、今度、私も付き添って遠乗りに出掛けることにいたしました。安全には十分注意いたしますので──」
「……待て」
ずっと書類仕事を続けていたクラウスが顔を上げ、オスカーに険しい眼差しを向ける。
「お前とルイーゼの二人で出掛けるのか?」
「はい、そのつもりですが」
「…………俺も行こう」
「陛下も? お忙しいのでは……」
「問題ない。何とかする」
「承知しました。それでは、そのように予定いたします」
オスカーが一礼して退室するのを見届けたあと、クラウスは深い溜め息をついた。
正直、今は隣国との面倒なやり取りが発生して、遠乗りなどしている場合ではない。
しかし、オスカーとルイーゼが二人で出掛けると聞き、妙な不快感が胸に燻るのを感じた。
それが何なのかは分からないが、王城から遠出して何かを企まれたらまずいし、乗馬を許可したのは自分なのだから、その成果を見届ける義務もある。
決してルイーゼとオスカーの仲を疑ったり、またルイーゼと出掛けたいわけではない。
クラウスは、遠乗りに出掛けられそうな日をいくつか書き出しつつ、仕事を前倒しで終えるべく、ペンを握る手に力を込めた。
◇◇◇
それから数日後のある晴れた昼下がり。
ルイーゼはクラウスと共にそれぞれの愛馬に跨り、王都から少し離れた場所にある丘へと向かっていた。
「毎日お忙しそうなのに、今日は私にお付き合いくださってありがとうございます」
クラウスも遠乗りに参加すると聞いたときは驚いたが、むしろ王妃らしくない姿をさらに見せつけるチャンスだと思い、ルイーゼは喜んで一緒に出掛けることにしたのだった。
改めてクラウスにお礼を伝えれば、クラウスは仏頂面でルイーゼのほうをちらりと流し見た。
「本当は邪魔だったんじゃないか?」
「邪魔? どうしてです?」
「……いや、最初はオスカーと二人で出掛けるつもりだったんだろう」
クラウスがなぜか浮気を責めるような口調でそんなことを言う。
(まさか本当に私がオスカー卿を狙っているとでも思ってるのかしら)
全くもって心外である。自分は、浮気者は滅びろ、が座右の銘と言ってもいいくらいに一途な人間なのだ。いくら婚約破棄を望んでいるからといって、一応はクラウスの妻という立場で浮気などするはずがない。その点だけは誤解を解いておかなければならない。
「オスカー卿は私の見守り役だからお願いしただけです。これでも、陛下に早く練習の成果をお見せしたいと思っていたんですよ。ですから、今日はご一緒するのを楽しみにしていました」
「……そうか」
きっぱりとそう言えば、クラウスの口元が少しだけ緩んだような気がした。
◇◇◇
王城を出てからどれくらい経っただろうか。
ルイーゼの愛馬の白雪も、クラウスの愛馬のゲルトも、お互いに対抗心でも燃やしているのか、今も我先にと言わんばかりの勢いで走り続けている。
「……おい、そんなに早駆けして平気か?」
クラウスがルイーゼを気遣うように声を掛けるが、ルイーゼは開けた美しい景色の中を疾走する解放感と楽しさで頭も胸もいっぱいで、クラウスの言葉はまったく耳に入っていなかった。
(なにこれ! こんなの日本じゃあり得なかったわ! 楽しすぎる!)
「白雪! あなたの実力はこんなものじゃないでしょう? もっと行くわよ!」
ルイーゼは何かのスイッチが入ったのか、ランナーズハイのような妙なテンションで白雪に発破をかける。すると白雪も「見くびってもらっては困る」と言わんばかりの様子で、さらに速度を上げ出した。
ルイーゼと白雪に付き合って、クラウスとゲルトも仕方なく速度を上げるが、すぐ先で大きな木が倒れて道を塞いでいるのが目に入った。
「おい、倒木だ。一旦速度を落として避けろ!」
クラウスがルイーゼに注意するが、ルイーゼは気づいていないのか、暴走した白雪を制御できなくなったのか、速度を落とすことなく倒木へと向かっている。
「……ルイーゼ!」
このままではルイーゼが白雪に振り落とされてしまうかもしれない。クラウスがそう思って声を上げた次の瞬間。
ルイーゼは美しい姿勢を保って白雪の背にまたがったまま、倒木の上を華麗に飛び越えたのだった。
ドッ! っという着地の音が響いた後、ルイーゼのはしゃぐ声が聞こえてくる。
「やったわ! さすが白雪ね! あなたなら障害馬術の全日本大会……いえ、オリンピックでも優勝間違いなしよ!」
ルイーゼの言っていることの意味も、異様に高い乗馬スキルを持つ理由も、クラウスには全くもってさっぱり訳が分からなかったが、とりあえず無事に着地できて楽しそうにしているからよしとする。
(……いや、ここは落馬して怪我でもすればよかったと思うところじゃないのか……?)
自分はルイーゼの悔しがる姿や苦しむ姿を見たいはずではなかっただろうか。それを、ルイーゼの無事を安心したり、楽しそうでよかったなどと思うとは、どうかしている。
愛馬に笑いかける横顔を見て、少しいいなだなんて思うとは、自分も久しぶりの早駆けのせいで、一時的に頭が変になってしまったのかもしれない。
そうだ、これは今だけおかしくなっているに過ぎない。しばらく経てば、また正常に戻るはずだ。
クラウスはそう考えて、手綱を強く握り直した。
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