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さよならの時
オルブライトに空港へ向かうように伝えてから、幾らか時間が経った。時計を見たダニーは、実際にはまだ一時間程しか経っていないことを意外に思った。
彼の頭の中では、もう何時間も時が流れて行ったような感覚でいたからだ。あれから一切、オルブライトからの連絡はない。あの殺し屋からも。
(無事に逃げおおせただろうか、或いは・・・)
不吉な想像に駆られそうになるのをなんとか持ちこたえながら、ダニーはじっと壁の地図を睨みつけていた。
その時だった、スマートフォンが揺れ、ダニーに着信を知らせた。
慌ててそれを手にしたダニーは、ディスプレイに映った番号を見て軽い落胆を覚えた。それはあの殺し屋の番号だった。
「もしもし、どうした、また空振りか?」
平静さを保とうと努めながら、ダニーはアルバにそう話し掛けた。
『オルブライトはいなかった、が、今の居場所はわかった』
電話の向こうで、アルバがそんな意味深なことを言った。
「ん?それはどういう意味だ。家には居なかったんだろ」
アルバの奇妙な物言いになぜか胸騒ぎを覚えたダニーは、食いつくように聞き返した。
『今はオルブライトの自宅にいる。監視カメラの死角を通って裏口から中へ入ることが出来たが、本人はいなかった。ただ・・・』
アルバはそこで言葉を切った。電話口の向こうで、ガサガサと音がする。
『在宅勤務中に使っている机の上に、メモが残っていた【エスター】【報告ミス】【十一時】。断片的だが、エスターはエスターリアルエステイト社のことだろう。オルブライトの会社の顧客の一つだ。単語から見るに何かトラブルがあったらしい。この【十一時】というのは、対策のための打ち合わせもしくは相手方が会社にやってくる時間かもしれない。十一時からしばらくの間、オルブライトは会社にいると見ていいだろう』
俺はいますぐに会社に向かう、そう言い捨てて、アルバは電話を切った。ダニーはそれ以上の詳細を聞く猶予すら与えられなかった。
(ダニーボーイ、会社にいるのか。なんてこった・・・)
スマートフォンを片手に持ったまま、ダニーは頭を抱えた。見れば、時計は既に十一時を十分ほど回っていた。
(絶望するのは早い、とにかくダニーボーイが今どうしているのか、確認するしかない)
ダニーは正気を取り戻そうと頭を振ると、すぐにオルブライトへ連絡を入れた。3コールほどで電話に出たオルブライトは、やや疲れたような、しかしどこか安心したような声で着信に応じた。
「おい、トラブルで会社にいるんだって?」
オルブライトの声を聞くや、ダニーは興奮を抑えきれず大声でそう言った。
「なんで知ってるかって?さっきお前の家に侵入した殺し屋から連絡があったんだよ。いいか、急いでたのかもしれないが、行き先がバレるようなメモを置いて出ちゃだめだ。で、トラブルの方はどうなんだ。・・・そうか、大したことじゃなかったか。それじゃ、もう会社を出てもいいんだな、よし、とにかく急いで空港に向かえ、すぐにだ」
ほとんど怒鳴るようなダニーの剣幕に圧され、電話の向こうにいるオルブライトはすぐに会社を出るからと、弱弱しく返事をして電話を切った。
ダニーは居ても立ってもいられなくなり、半地下の部屋を出ると、通りを走るタクシーを探した。そしてようやく一台を捕まえると、急いで乗り込んで運転手に伝えた。
「空港に向かってくれ、とにかく出来るだけやはく」
ベルフォートの中心部から十数キロ離れた場所にある空港のカフェで、ダニーとオルブライトはテーブルに置かれた二つのコーヒーを挟んで向かい合っていた。
ひと足先に空港に着いたダニーは、オルブライトが乗る予定の航空会社の手荷物預かり所の前で相手を待った。
十数分ほどして、大きなキャリーケースとボストンバッグを一つずつ抱えたオルブライトが、ダニーの前に現われた。
オルブライトの姿を見つけるや、ダニーは子供のように駆け寄りハグをした後、その肩を叩いた。
それから、すぐに手荷物を航空会社に預け、フライトまでの時間を空港内のカフェで過ごそうということになった。
三十代も後半に差し掛かったダニエル・オルブライトは、今が人生の盛りと言わんばかりの溌溂としたオーラを纏っていた。
もちろん、ここ数日の騒動のせいでどこか疲れ切った表情をしていてけれど、それでもダニーにはとても心強く立派な青年に映った。
「ようやくだな。あの飛行機に乗っちまえば、ダニーボーイも本当に自由になる。もう過去のしがらみも、政治の枷もない、好きなことをやれる自由を手に入れるんだ」
「最後までダニーボーイなんだな、やめてくれって、もう二十年近く言ってるのに」
感慨深げに話すダニーに向かって、オルブライトは苦笑いしながらそう応えた。
「お前はいつまでもダニーボーイさ。ま、俺は今じゃダニー爺さんになっちまったけどな」
「ダニーおじさんだって、俺にとってはずっとダニーおじさんだよ」
オルブライトはそう言って笑った。それからふと手元の時計を見て、そろそろ保安検査場に行かないと、と言い立ち上がった。
「もうそんな時間か、よし、行って来い。気を付けてな」
ダニーも立ち上がると、飲みかけのコーヒーを喉に流し込んだ。
「最後にもう一度ハグさせてくれないか」
そう言って、ダニーはオルブライトにハグをしようと近づいた。
ところが、オルブライトはそれを拒むように一歩後ろに下がると、悲しげな目を向けこう言った。
「ごめん、さよならだ。さよなら、ダニーおじさん」
それだけ言うと、ダニーに背を向けて歩き出した。
「おい、待ってくれ。どうしたんだダニーボーイ」
後を追おうとしたダニーの前に、一人の女性が割り込んだ。縮れた髪と気の強そうな目元をしたその女性は、ジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出すと、ダニーに突き付けるようにそれを広げた。
「ヤードのサリー・ドノヴァン警部補です。ダニエル・フランクリンさんですね。あなたにスパイ防止法違反並びに国家反逆罪の容疑がかかっています」
ヤードと名乗った女性が見せたのは、逮捕令状だった。その時にはもう、ダニーの周りを屈強な男たちが取り囲んでいた。
居並ぶ男たちの隙間から、野次馬たちの視線がダニーに突き刺さる。そんな人の群れの中に、じっとダニーの事を見つめる灰色の髪の殺し屋の姿があった。
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