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灰色の瞳
アスファルトが熱を吸収したせいで、アパートメントの周りは夕刻になっても気温が下がらない。札束の詰まったキャリーケースを引き摺りながらここまで来たビアンカは、暑さにあてられたように一瞬その場に立ち尽くした。
彼女の後ろから、一組の男女が通り過ぎて行った。男の腕には生まれて間もない赤ん坊が大事そうに抱かれている。
入り口前でぼんやりと佇むビアンカを怪しむように見ながら、その夫婦と思しき男女はエントランスの奥へと消えて行った。
ビアンカはそこではたと我に返り、キャリーケースを引き摺りながらそそくさとエントランスの中へ入った。そしてNo.209の番号を押すと、以前と同じように内扉が開いた。
No.209の部屋の前まで来たビアンカは、肩から下げたポシェットの蓋を開け、そこにしまっている拳銃に手を触れた。
ロビーノの作戦を頭の中で呪文を唱えるように何度も繰り返したが、一向に不安は収まらない。
「何やってるんだろ」
ビアンカはなんだか馬鹿らしくなって、ポシェットの蓋を閉めた。
ロビーノの作戦なんて、上手くいくはずがない。わかりきっていることだ。仮に油断を誘うことが出来たとしても、相手はプロなのだから。
ビアンカはインターホンを押した。
「開いている」
そんな声が聞こえた。スピーカーはすぐそばにあるはずなのに、その音声はどこか遠くから響いてくるような気がした。
ビアンカはドアノブを握り、ゆっくりと扉を開いた。その先に見えたのは、この前と全く同じ光景だった。
目ぼしい家具のない小さなワンルーム。あるのは左隣のキッチン、そしてシングルベッドと飾り気のないワードローブ。部屋の中央にはローテーブル、イスが2脚。
そしてローテーブルの奥に置かれたイスには、あの男が、アルバが座っていた。
「そこにかけると良い。荷物はその辺に置いておいてくれ」
手前のイスを勧めるのもこの前と同じだ。ビアンカは黙って部屋に入ると、キャリーケースを入って左側にある一人用のシンクの側に置いた。それから恐る恐るアルバの方へ視線を映した。
彼は腕を組んだままイスに深く腰掛けている。その目を捉えた瞬間、それまで弱気に支配されていたビアンカの心に、仄暗い復讐の火が灯った。
やっぱり、私はこいつを許すことが出来ないのだ。ビアンカはそう思わざるを得なかった。
両親が殺された日、階下の物音で目が覚めたビアンカは、不安と恐怖を抱きながら1階へと降りようとした。
ビアンカがエントランスへ続く階段を駆け下りようとした時、その目に、リビングから出てくる人影が映った。
全身黒い服で身を包み、目出し帽をかぶった背の高い男が、周りの様子を伺いながら静かに玄関から外へ出ようとしていた。
ただならぬ気配に、ビアンカは恐ろしさのあまりその場を動くことが出来なかった。
それでも、震える足を引きずりながら、ビアンカは階下へと向かった。だが、ようやくリビングに着いたビアンカの目に飛び込んで来たのは、頭を撃ち抜かれテーブルに突っ伏す父親と、ソファにうつ伏せで倒れている母親の姿だった。
声も無くその場に立ちつくすビアンカの脳裏には、目出し帽の奥に一瞬だけ見えた、暗く沈んだ灰色の瞳が鮮明に焼き付いていた。
家の中の高価なノートPCやタブレット、それに貴金属類が無くなっていたこと、殺し方や後処理が杜撰だったことから、素人の物盗りが家主に見つかり、強盗に変わったのだろうと、警察は結論付けた。
けれど結局、犯人が逮捕されることはなかった。
ただの泥棒なんかじゃない。ビアンカはあの日見た男のことを警察に話し、そう訴えたけれど、泥棒の姿を目撃したという以上の扱いにはならなかった。
目の前に、あの日の灰色の瞳が見える。ビアンカの手が無意識にポシェットに伸びた。
「それを使う必要はない」
アルバの低い声が飛んだ。突然のことに、ビアンカの手が止まった。
アルバは自分のジャケットの懐に手を入れると、何かを取り出した。拳銃だった。映画なんかでよく見るベレッタだ。
どういうわけか、アルバはその拳銃の銃身を握り、グリップをビアンカの方へ向けたままローテーブルの上に置いた。
「ポシェットに仕舞っているのを使う必要はない。これを使え」
アルバはローテーブルに置かれた拳銃を顎で示しながら、座ったまま背筋を伸ばしてビアンカに正対する恰好をとっていた。
思いもしないアルバの振舞いに、ビアンカは次に自分が取るべき行動を見失い、しばらくその場に立ち尽くすしかなかった。
それでも、ビアンカは気持ちを入れなおすように深く静かに息を吸い込むと、ゆっくりとポシェットから手を離し、少しずつアルバのもとへ近づき、一刻も彼から目を離すことなくイスに腰掛けた。
「これを使え、というのは、どういう意味ですか?」
テーブルの上にある拳銃とアルバとの間で視線を行き来させながら、ビアンカはそう尋ねた。アルバはその問いに直接答えることはせず、代わりにこう言った。
「依頼は完了したと言ったが、ほぼ完了したという方が正確だ。後はあんたがそいつで俺を仕留めれば、本当の意味で依頼は完了する」
そう話したアルバの口調は、業務的と言ってもいいほどなんの感情も無いものだった。
「あんたは俺が両親を殺した男であることを知っている。俺を殺せば復讐は完了だ」
どうしてそのことを、ビアンカがそう尋ねる前に、アルバはイスの脚に立てかけていたタブレットを手に取ると、画面をビアンカの方へ見せた。
ビアンカがそれに目をやると、そこには目隠しをされ、両手足を縛られたロビーノが、どこか倉庫のような場所に閉じ込められている姿が映っていた。口には猿轡が噛まされている。
「この男があんたに言ったんだろう。カプランが無くなったのなら、両親に直接手を下した奴を殺ればいいと」
画面の向こうでのたうつロビーノを指差しながら、アルバは冷たく言った。
「そうです。あなたがお金を確認している隙に、彼が貸してくれた拳銃であなたを撃つ。そういう手筈でした」
ビアンカは観念したように言った。
「でもこんな風に御膳立てしてくれるなんて、想定外でした。正直、あなたの考えていることがわかりません」
ビアンカはそう言うと、もう一度ローテーブルの上の拳銃に目をやった。安全装置は外されている。恐らく引き金を引けば弾が出る状態になっているのだろう。
その刹那、ビアンカは銃を取り、それをアルバに向けて構えた。銃身は真っすぐにアルバの額へと向けられていた。
けれど、アルバは微動だにせずまっすぐにビアンカを見据え、口を開いた。
「あんたは両親を殺した人間を探し出し、始末してほしいと言った。俺はその依頼を受け、前金まで受け取ったんだ。一度結んだ契約は完遂する必要がある」
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