フィルディへ

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フィルディへ

いつの間にか眠ってしまった妻の体にそっとひざ掛けをかけてやる。  ゆらゆらと動く頭は自分にもたれさせると、ふわふわの髪を避けて額に口づけを落とした。  窓の外には糸杉が並んでいる。  この並木を抜けてしばらくすれば、やがてフィルディの森と砦が見えて来るだろう。  糸杉が揺れ、そこに誰かの影があった気がしたが、小鳥が数羽飛び立っただけだった。  非業の死を迎えた奴隷の女と、その女を逃がそうとした盗賊を思い出す。  数か月前、彼ららしき遺体の一部が並木から外れた所にある大岩の影から見つかった。  それらを拾い集め、王都の外れにある墓地の一角に埋葬した。  墓碑銘には“糸杉(シプレ)に残った良心に感謝”と刻んである。  ここに来る道中、別の墓にも寄った。  それは後方の馬車から付いてくる侍女リーユの兄の墓で、ジル・ローレと刻まれていた。  墓石の影に一本の名もないキノコが生えているのを見つけた妻は、随分と嬉しそうに笑っていた。  墓には供え物の代わりに、妻とリーユが花の種を撒いていた。  エルキュールには何の花か分からなかったが、二人は「花が咲いたらまた来るね」と告げていた。 「あ……ぅあ……」 「しー。今母は寝ている。乳は先ほどもらったばかりだな。おしめか?」 「あぃ」 「濡れてはいなさそうだな。では父の腕に来るといい」  エルキュールは寝ているクローディアをクッションで支えると、ゆりかごの中から生まれて間もない我が子を抱き抱えた。 「あぁ……」 「お喋りの練習でもしているのか? 愛らしい口だな。いや、涎はそんなに出さなくてもいいが」  口から溢れた涎を、胸にある涎かけで拭うと、ついでにぷっくり膨れた頬を指先でつついた。 「シャール、お前は母似か? ああもう食べてしまいたいくらい愛らしいな」  赤子はご機嫌なのか、エルキュールの腕の中で意味のない音を出しては、時折自分の手を咥えていた。  その手まで涎まみれになっているが、どうやらエルキュールはその全てが可愛いらしく目尻は下がりっぱなしだった。  巨体のエルキュールが小さな赤子を抱くのは、いささか滑稽にも見える。  新しいエーノルメの国王夫妻が男児を授かったのは約三か月前。  初産はそんなものなのかもしれないが、陣痛が始まってからなかなか出て来ない赤子に彼は心配になり、まさか妙な迎えは来ていないかと密かにセージを焚いてしまったほどだ。  幸い何も見えるものも感じるものもなく、それから三時間後にようやく元気な産声が聞こえた時は、クローディアを抱きしめ目に涙まで浮かべてしまった。  名前は“温もり”を意味する。エーノルメの前身となったエーナ族の言葉だ。  生まれた我が子を初めて抱いたクローディアが、「あったかい」と開口一番に言ったことから。    今馬車に揺られているのは、ようやく国内も落ち着かせることが叶い、フィルディにお礼をするため。そして初孫を義両親に見せるためだ。もちろん義弟のクリスティアンにも。
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