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「ありがとう。よくエーノルメに来てくれた。一人で敵国に来るのは心細かったろう」
神殿の入り口に立った時とは違い、クローディアを気遣ってか優しさを含んだ声音だった。
雷鳴のように思えた声も、これなら恐ろしくはない。
だが彼女はその声音にいささか動揺していた。
心の奥の棚に仕舞いこんだはずの、あの人の声を彷彿とさせたので。
「もう敵国ではございません。だから私がいるんです」
クローディアはそう答えると必死に想い出を押し込めようとしていた。
死者と魂を通わせる儀式と同じ香のせいか、今一番思い出してはいけない箱の蓋がガタガタいっている。
胸を絞める寂寥感に、彼女はヴェールの下で胸を押さえた。
おかしい。エルキュールが神殿に入ってから、近づくごとにその切なさが強くなる。
「殿下……」
祭司の剣呑な声がかかる。このまま式を中断させるわけにはいかない。
「悪い、このまま続けてくれ。父も……陛下もそれをお望みだろう」
「ではヴェールを」
新婦の全身を覆う薄い白い絹の布。
未だ婚約者の顔を見たことのない彼は、そのヴェールを手に取るのになんの感情も期待も抱かないはずだった。
だが、なぜかこのヴェールの下には、昏睡から目覚めた時に呼びたかった名の正体がいるような気がしてしまう。
神殿に入って以降おかしい。
香が不思議な感覚を呼び覚ます。
答えを知りたくて、彼はヴェールを取り払った。
「愛らしい……」
思わずそんな言葉が口をついていた。
ヴェールの下で自分を見上げて来る新婦は新緑を思わせるつぶらな瞳をしていた。
神話の女神を模して垂らされた髪は豊かにうねる飴細工のような金色。
少し目元にクマが出来ているのが、眠れぬ日々を過ごして来たことを想像させ胸をえぐられるような気がした。
こけてしまってはいるが、バラ色の頬とそれよりも赤い唇がなんとも魅力的。
まるで人形のような愛らしさ。
それだけではない。
なんだ、この気持ちは……会いたかった、そう、会いたかっただ。
俺はずっと彼女に会いたかった……なんでだ。一度も会ったことがないはずなのに。
一方彼を見上げたクローディアも完全に動揺していた。
どう考えても死者の魂に語り掛けた時のような、あのシンパシーのようなものを目の前の婚約者から感じるからだ。
立ち込める香のせいで霊的な繋がりが出来きてしまったような。
だが彼女の場合それが出来る相手は死者のみ。生者と繋がったことは一度もない。
私、知ってる。
この魂を知ってる。
なぜ? そんなはずは……あなたは誰?
どうしてあなたからエクレールを感じるの?
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