勇往邁進に恋をする

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 空が分厚い灰色の雲で覆われているせいで、まだ昼過ぎだというのに辺りはどんよりと薄暗い。  気温も湿度も高くて、不快指数はマックスだ。  湿り気を帯びた空気は重たく、何だか少し息苦しい。  汗ばんでいるせいで、ペタペタと体に張り付く化学繊維(ジャージ)が気持ち悪く、私は胸元を軽くつまんでパフパフと空気を送った。  目の前の床に広げた書道用紙もまた、湿気を吸ってふにゃふにゃと波打ってしまっている。  窓を開けているせいで湿気っている気もするが、窓を閉めたら暑すぎるからな……と、私はひとつため息をつく。  今日はダメな日だなと思いながらも、練習練習……と、白毛の筆を手に取った。  波打つ紙を左手でひと撫でし、皺をのばす。それから、筆にたっぷりと墨を吸わせて、丁寧に馴染ませる。持ち上げても垂れてこない絶妙な加減に墨を落とし、毛先を整えると、私は鼻から息を大きく吸い込んだ。そして一瞬、息を止めて一角目。真っ白な紙の上へスッと筆を下ろす。  指先に伝わってくる毛の流れを感じながら、呼吸に合わせて紙に筆を滑らせる。  緩急つけて直線。とめ、はね、はらい。  筆の毛先の一本一本に神経を巡らせて、紙からそれが離れるところまで大事に扱う。    "花鳥風月(かちょうふうげつ)"  自然の美しい風景という意味も素敵だと思ったし、何より字の形が気に入ったので、この熟語を作品にすることに決めた。  呼吸と筆先、そして文字の流れに全神経を集中させて、私は無心で白と黒だけの世界へと没頭する。
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