1、ある梅雨の時期のこと

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1、ある梅雨の時期のこと

 それは、6月に入った梅雨の時期のこと。湿気の強いジメジメとした雨期が続く中、留年をしても懲りずにあたしはいつも通り今日もファミリアで働いていた。    朝から雷雨となり、荒梅雨(あらづゆ)が降り続いており、店内の窓から見える景色からも依然として雨が降り続き、嫌気が差すくらいの分厚い雲がどんよりと空を覆っている。  創作料理店”ファミリア”の軒下(のきした)には紫陽花(あじさい)が咲き乱れていて、その紫陽花(あじさい)も雨に濡れて可哀想に見えた。  あたしは装飾花が手まりのように半球形に咲く手毬(てまり)咲きの紫陽花が好きで、綺麗な藍色や紫色の花を付けているからつい玄関に出ると魅入ってしまう。  しかし、ランチタイムも終わり、昼下がりの時間になってもこうも雨が降り続いてしまっては客足は遠のき、店の前を通る人さえめったに見かけないと来ている。  店長が作る料理もマスターしてすっかり一人で店番を出来るようになったあたしは、暇な日はこうして一人で働く時間も多くなった。  将来は店を引き継いで欲しいとまで言われたことまであるが、まだ高校生に過ぎないあたしは、冗談として受け取っている。  今日は新人教育もないため、あたしは椅子に座ってゆったりと足を伸ばして、凝った肩を自分で叩きながら退屈した時間を過ごしていた。    店長の櫻井哲二(さくらいてつじ)さんは朝から出掛けているそうで、奥さんの櫻井陽子(さくらいようこ)さんは産まれて間もない子どもの面倒で忙しいのか、住居となっている上の階から降りてくる気配はない。  時計の針を見るのにも飽きて、雨音を消し去るチャイコフスキーの音色に耳を傾ける。  今流れているのは『ピアノ協奏曲第一番』、あたしはクラシック音楽には詳しくないが、創作料理店”ファミリア”を経営する店長夫婦、櫻井陽子(さくらいようこ)さんと旦那さんの櫻井哲二(さくらいてつじ)さんは揃ってクラシックが好きで、本場のウィーンやイタリア、ドイツまで聴衆に出掛けるらしい。  あたしにとっては歌詞がないクラシック音楽というのはどうしても物足りなさを感じてしまうもので、吹奏楽の奏でるオーケストラの演奏も長時間はじっと聞いていられない性分だ。  こんな性格のあたしにはやっぱり、唯花先輩の歌声が何より一番の癒しだ。  バーチャルシンガー”minori”の頃の楽曲はもちろん、最近の天海聖華(あまみせいか)の曲もバッチリ聴きまくっている。  ライブでプリズムクリエイティブの天海聖華として歌っている唯花先輩の姿を見た時は、あまりの感動に涙が止まらなかった。  ドラマやCMなど、活動の幅を広げていく天海聖華としての唯花先輩。  その姿が華やかで輝かしいだけに、一日でも長く活動を継続してほしいと願うばかりだ。    そんな事を思い耽っていると、唐突に窓の外が明るくなるのが見えた。  落雷でも起こるのかと警戒したがそうではない。  先程まで強い雨が降っていたのに、陽光が差し込み、つい眩しさで腕で顔を隠してしまう。  ―――この時期の天候は気まぐれだ。  そんな風に思って、立ち上がるとカランカランと小気味いい鐘の音が鳴って、玄関が開かれた。    あたしは反射的に背筋を伸ばして玄関に目を向ける。  すると、ヘアバンドを付け金色の髪を靡かせる、肌の白い少女が雨が滴る白い傘を持って現れた。  ふんわりとしたレースの付いた綺麗なドレスを着た長い髪の少女。  それはフランス人形のような精巧な人形に見えたが、あたしはそれよりも、その姿が童話、「不思議の国のアリス」に登場するアリスそのものに見えて驚きのあまり口を閉ざしてしまった。 「ごきげんよう、水原舞(みずはらまい)」  愛らしい澄んだ声であたしの名前を呼び、お辞儀をする謎の少女。  丁寧な挨拶をしているが、どうにも安心できない不気味なオーラを纏っている。  その手には何故かセキセイインコが手乗りされていて、細腕には大きな紙袋もぶら下げている。  記憶を掘り返すが、どう考えてもあたしはこの少女と会ったことはない。  だが、この子はあたしに親しみを抱いているかのように見えた。
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