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プロローグ:望まぬ婚約
「……すまない……本当に、すまない……」
誰かが、掠れた声で何度も謝っている。手の甲にぽたぽたと落ちる雫。
言葉を返してあげたいのに、声が出ない。何か伝えてあげなくちゃいけないのに、頭の中は霞がかって、もう何を考えていたのかさえわからない。それでも、握られた手の温もりに、声に、酷く安堵して――真っ白な世界に意識を手放した。
◇◇◇
「いいか。お前は何もせず、何も話さず、ここにじっとしていなさい」
煌めくシャンデリア。華やかな舞踏会場の片隅で、カレン・ルブランは、父ダリウスに厳しく言いつけられる。今日に限った事ではない。彼は、娘が人前に出る事を酷く厭う。
「わかっているとは思うが、私の視界から決して離れるな。……いいな?」
カレンが俯きがちに小さく頷くと、ダリウスは暫しの間厳しい眼差しでカレンをじっと見降ろし、はぁと重い溜息を零して踵を返した。言いつけを守らなかった事など一度もないのに、どうしてこんなにも信用がないのだろう。父親が去る後ろ姿を見ながら、カレンは言われた通り壁に寄り、何もせずそこで待つ。どこからともなく、囁き合う声が聞こえた。
「……ねえ、あの方が?」
「……ああ。病弱と聞いていたけど、今日は出て来たみたいだね。あれが『喪女』――ルブラン侯爵家のご令嬢だよ」
『喪女』という蔑称が自らの事を指すと知ったのは、いつの頃からだろう。皆がそう言うのも仕方ない。女性らしい体は首まで詰まった黒いシンプルなドレスで隠され、長く艶のある黒い髪は可能な限りひっつめられている。まだ十七歳だと言うのに、若々しさも華もない。まるで、修道女のようだ。言われるまでもなく声を掛ける者など一人もいない。皆、遠巻きに視線を向け、我関せずとそれぞれの場所に落ち着いていく。
(……早くお家に帰りたい。何だか全部……馬鹿馬鹿しいわ)
人々の楽しそうに笑い合う声が、酷く遠くに聞こえる。
時折向けられる不躾な視線も、言葉も、もう痛みさえ感じない。
ただ時々、全てが煩わしく、何もかもを投げ出して走り出したくなる瞬間があるだけ。暫くは、退屈な時間が続きそうだ。
こんな時、カレンはいつも、空想の世界に籠る事にしていた。
瞳を伏せ、呼吸を整え、脳裏に旋律を思い浮かべる。
シャンパンの泡のように、弾けるリズム。
濃厚なお酒の甘い香りのように、トロリと空気に溶ける音色。
どこの国の言葉かもわからない言葉――でも、何となくわかる。
それは、この中にいるだろう誰かの心を歌っている。
メロディを思い浮かべるだけで、心はどんどん軽くなる。
もし、今この場で歌う事が出来たなら。
人々の注目を一身に集め、場の空気を一瞬で奪う――そんな事を想像するだけで気持ちがスッと晴れ、退屈な時間も楽しいものに変わった。
どのくらい、そうしていただろう。
そこに、「きゃー」という黄色い声が響き、一人の男性が周囲に可憐な女性を侍らせながらこちらへとやって来る。すらりと伸びた背。銀色の髪を後ろに撫でつけ、きめ細やかな白い肌と蕩けてしまいそうな甘いマスク、そしてベルフォール公爵家長男という完璧な肩書を持つ男――レニエ・ベルフォール。
「やあ、カレン。良い夜だね」
カレンは、こっそり溜息を吐き、カーテシーで彼を迎える。
彼は、彼を取り囲む美しい女性達と軽く挨拶を交わした後、一人カレンに近付いた。
「君も相変わらずだね。いつまでそうして陰に隠れているつもりだい?」
「……お父様の、言いつけですもの」
レニエは、ふっと吐息だけで答える。
母親同士が懇意にしていた事から、彼とは幼い頃から付き合いがあった。
ただ、同じ年にも関わらず、これまで一度として心を通わせられた事はなかった。それ程までに、二人の生きる世界は違った。
「今日くらい、もう少し着飾って来れば良かったのに。この後何があるか知ってる?」
「……? 何があると言うの? 今日は、あなたのお母様のお誕生日を祝う席でしょう?」
カレンが首を傾げると、レニエが驚き目を見開く。
そして、「はっはっは」と面白そうに声高に笑ったかと思えば、肩を震わせながらカレンを見た。
「ルブラン伯爵は、本当に君に何も言わなかったんだね。今日は、僕と君の婚約が発表されるんだよ」
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